愛による神の存在証明

1ヨハネ

4:8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。

 

4:16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

 

聖書が語る福音というものは,とにもかくにもこの世界を造られた唯一真の神様が存在しているということを前提にしています.ですから,もしこの世界を造られた唯一真の神様がおられなければ,聖書に書かれていることはすべて無意味無価値な妄言の寄せ集めであり,聖書はただの紙屑に過ぎないということになります.

しかし,この国の多くの人はこの世界を造られた唯一真の神様がおられることを信じていません.どうしたら神様がおられることを信じることができるでしょうか.何か神様しか起こせないような奇跡が起きたら,信じられるでしょうか.あるいは,科学や数学や哲学によって神の存在が証明されたら,信じられるでしょうか.

聖書は,そうした私たちが通常思いつく証明の方法によっては,神様の存在を証明しようとはしません.それは,神様がおられるということは結局のところ信じることによって分かることだからです.私は今ほど,「信じられるでしょうか」というふうに言いました.神様の存在が奇跡や科学によって証明できるなら,それは信じるというよりも単に事実を確認すると表現することが適切でしょう.しかし,神様の存在はそのように単なる事実の確認のように認めることが原理的にできないものだと思います.

例えば,なにかの奇跡が起きたとして,その奇跡が偶然の現象だったり,疲れた脳みそや目の錯覚だったり,未知の自然現象や物理法則によるものだったり,薬物による幻覚ではないとどうして言い切れるでしょうか.はたまた,真の神様以外の八百万の神々のような他の宗教の神の力だったり,悪霊の力だったりする可能性もあるのではないでしょうか.どうしてその奇跡が聖書の示す真の神によって起こされたものだと断言できるのでしょうか.そう考えると,奇跡というものは必ずしも真の神の存在を証明するものとは言えないということがわかります.

また,科学のような営みは,私たちがこの有限な物理的な世界の中で観察可能な事実に基づいて論理を組み立てていくものですから,そもそもこの世界のすべてを造り,物理法則さえ造られた目に見えない方である神様を捉えるための方法としては不十分であることは明らかです.ちょうど,それはお母さんのお腹の中の胎児が,自分のお母さんの存在を外から観察することで証明しようとするようなものです.お母さんのお腹の中の胎児は,自分の生存をお母さんの体に依存していますが,しかし絶対にお母さんをお腹の外から眺めることはできません.もし,お腹の中の胎児が,僕のお母さんは顔も見ることができないのだから,存在するはずがないなどと主張したら,それはとても愚かなことです.

結局のところ,私たちが神の存在を受け入れるためには,最終的には信じるという方法しか残されていません.聖書にも,この世界が神の言葉によってできたことは信仰によって悟るのだと書かれています.

そうはいっても,何か信じるに値する理由がなければ,ただ信じるということは難しいと思います.聖書も,何も信じるに値する理由を示さずに盲目的に信じることを勧めていはいません.

では,聖書はいったい何によって私たちに真の神を信じるべき理由を示しているのでしょうか.それは,愛によって,ということができます.

聖書の内容を一言でいうと「神の愛」です.もっと短く言うと「愛」です.聖書には,神様が私たち一人ひとりのことをどんなに愛しておられるかということがひたすら2000ページ使って書いてあります.聖書は神様からのラブレターと言われることもありますが,2000ページのラブレターと表現してみるとちょっと異様に感じるくらいかもしれません.神様の私たちに対する愛は,あまりに激しいものでちょっと普通ではありません.普通じゃない愛というと単に素晴らしい愛というより危ない感じもしますが,まあそれもいたしかたないというくらい,普通の人にとって聖書の神様の愛は常軌を逸していると感じられる愛です.

そして,聖書の神こそが唯一真の神である,信じるべきお方であるというのは,まさにこの愛が分かることによって分かることなのです.

人間同士の関係のことを考えてみたいのですが,人間関係の中で最も美しい,素晴らしい関係というのはどういう関係でしょうか.それはお互いの愛によって結びついた関係ではないでしょうか.お金目当ての関係,体目当ての関係,同好の趣味による関係,ご近所の関係,職場の関係,政治的な関係など,色々ありますが,やはりもっともお互いを信頼できる,安心感があり,美しく,価値があると言えるのは,愛によって結びついた関係だろうと思います.

人間関係の中で,相手のことを最も信じられるときというのはどういうときかというと,その人を信じるに値する奇跡が起きたからとか,その人が信じるに値するという科学的な証拠があるからではないと思います.端的に,相手のことを愛しているときに相手のことを最も信じられるのではないかと思います.そして,相手のことを愛することができるのは,相手も自分のことを愛してくれていると感じることができるからではないかと思います.

神様を信じられるかというのもこれに近いところがあり,結局神様からの愛を受け入れられるかどうかが,神様を信じられるかどうかの分かれ目なのです.

聖書は,神様の具体的な愛はイエス・キリストの十字架によって最高潮に表されたことを告げています.神の前に罪人である私たちの身代わりとして,神の子であるイエス・キリストが十字架の上で神のさばきを受けたこと,これが神様から私たちへの最高の愛の形であると聖書は教えています.

信じたクリスチャンである私たちにとって,この神様の愛は本当に自分が知る中で最高の愛であり,むしろこれこそが本物の,真実の愛であるということになるのですが,逆に信じていない人は,この愛が分からないから信じていないということになります.

先程も述べたように,神様の愛というのは2000ページものラブレターを1500年くらいかけて書き上げて渡してくるような,一般的な感覚からはかけ離れた常軌を逸したものです.ですから,そんな常軌を逸した神の愛をすぐに受け入れられなくても,ある意味で無理はありません.ややもすると,神の愛は一見して恐ろしく執拗なストーカーにさえ思えてくるかもしれません.自分が拒否しているのに一方的な愛を押し付けてくる歪んだ行動がストーカーにはありますが,神の愛がそのようなストーカーとどのように違うのか,というのはなかなかわかりにくいところではあります.

大きなヒントになるのは,私たちは神様の前に罪人であるという,一つの重要な教えです.私たち人間は,神様からの愛を受け取るか受け取らないか,自由に選ぶことができます.しかし,神様の愛を拒否したら,私たちは自分の罪という問題から自分を救い出してくれる唯一の道を失うことになります.聖書はラブレターでありながら,私たちの中にある罪という問題,つまり私たちがいかに堕落してしまった悪い者であるかということが徹底的に指摘されているという普通のラブレターと比較するとありえない特徴を持っています.ラブレターというのは普通は相手のいいところだけを書くものだからです.しかし,真実の愛というものは,相手の悪いところを徹底的に暴いた上で,それを解決し,赦し,包み込んでしまうものだということを聖書は示しています.神の愛は,その真実の愛の実践だということができます.逆に言えば,自分の心の中の隠れた闇,罪という問題をさらけ出さずには,神の愛を受け取ることができないということでもあります.神様は,臭いものに蓋をした,表面的に取り繕ったような偽の愛は望んでいません.自分の心の中の闇を暴かれるというのはつらい経験ではありますが,嘘偽りのない真実な愛を実現するためには必要な痛みなのです.ですから,私たちが真実に自分の心の闇を見つめ,罪という問題に苦しみ,その苦しみを神様の前にさらけ出すそのときに,はじめて神様の愛が私たちの心に到達し,それを理解することができるようになるのです.