ゲヘナの永遠の火に罪人が焼かれることにおいても神の愛が働いていることについて

律法の内容を要約すると、それは「神と隣人を愛せよ」というものになる。

 

「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」

 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

これが、重要な第一の戒めです。

『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。

この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

(マタイ22:36-40)

 

「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。

(ローマ13:9)

 

 律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

(ガラテヤ5:14)

 

人は律法を完全に守り行うならそれによって義と認められる。そして律法の命令とは詰まるところ愛の命令である。故に義とは愛を行うことだといえる。義と愛とは対立するものではなく、一体のものだということになる。

しかしときに、愛と義の関係が対立的であるように考えられていることがある。特に罪に対する神の裁きを語る際に、愛なる神がなぜ罪人を裁くのかという疑問に答えるために、神は愛なる方であると同時に義なる方でもあるからだという説明である。それで、愛を立てれば罪人を裁くことができず、義を立てれば罪人を裁かなければならない、というように考えて、愛と義が対立しているかのような見かけを作り出してしまうのである。愛なる神も罪人を裁くときには愛ではなく義の方を取っている、愛“ではなく”義が二者択一的に選ばれていると考えてしまっているのだ。しかし、このような愛か義かという二者択一のように考えることは正しいのだろうか。罪人が裁かれるとき、そこにあるのは義だけで、愛はどこにもないのだろうか。

罪が裁かれるというのは確かに義の実現である。そして、神が罪人を最後の審判を経てゲヘナの火に投げ込むとき、その裁かれている罪人を愛しているというふうには表現できるとは思えないというのも確かだ。神が義をもって罪人をゲヘナで焼いているときに、その罪人への愛を示すことはできない。

しかし、確かにその永遠の火で裁かれている罪人への愛はそこにないかもしれないが、罪人をゲヘナで裁くことにおいても、ある面では神の愛が示されていると述べることも可能なのではないだろうか。それは、不当な苦しみを受けた聖徒たちのための復讐という面においてである。

 

彼らは大声で叫んだ。「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

(黙示録6:10)

 

神はキリストの証しのために殺された聖徒たちのために、復讐を行う。それによってご自身の義を示し、同時に愛を示されるのである。神の国が実現されるためには、地上の悪は一掃され、罪に対する正当な報いが行われなければならない。神の国とは究極の愛の交わりのあるところであり、聖徒たちの最大の希望であり、その希望を神が実現してくださることはまさしく愛によることである。

 

それは、あなたがたを神の国にふさわしいものと認める、神の正しいさばきがあることの証拠です。あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。

神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、

苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。

主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。

そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。

その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。

(第二テサロニケ1:5-10)

 

したがって、罪人がゲヘナの火で焼かれるときにさえ、神は愛であり、むしろ愛のためにこそ、神は罪人をゲヘナで焼くのだとさえ言いうるのである。