質問への答え:聖書の中で今日のクリスチャンに適用される箇所とされない箇所について

質問箱で頂いた以下の質問に回答します.

旧約聖書はイエス様の後は適応されないのですか?(例えば10分の1献金など)

新約聖書のローマから後のみ今のクリスチャンに適応されると聞きました.

なのでイザヤなどのみことばに今の自分の祈りを当てはめたりするのもおかしいことですか? 

 

 ご質問の中の「適応」は「適用」の誤りではないかと思います.

旧約聖書の適用という場合,その意味はいくつかあります.イエス様の十字架以前と以降で適用されるかどうかが分かれるというのは,旧約聖書に記された律法による契約のことです.律法による契約というのは,イスラエルの民がエジプトを出たときにモーセを通して与えられた律法の行いを守ることによって祝福されるという契約です.

しかし,実際には律法を完全に守ることは人間には不可能です.律法の役目はまさに人間には神様の正しい教えを守る力がないことを示すことにありました.

しかし,イエス様が来られ,十字架の贖いの死によって私たちの罪を取り除き,律法の行いにはよらない,信仰による義を与えてくださいました.律法による古い契約は廃棄され,キリストの十字架による新しい契約が打ち立てられました.

ですから,旧約聖書の律法の行いを救われるための条件としてそれを守るという意味での「旧約聖書の適用」は現在のクリスチャンにはなされないし,してはなりません.キリストの十字架以外に,私たちを救うことのできる力を持つものはありません.

しかし,律法の教えを,神が示した絶対的に正しい指針として,クリスチャンとしての歩みに活かすという意味での「旧約聖書の適用」であれば,今日のクリスチャンにとってもまったくおかしなことではありません.ただ,それは律法の教えのすべてを文字通りに実践すべきだということではありませんし,逆に律法の教えを超えるような正しさや愛や熱心を示してはいけないということでもありません.

クリスチャンはキリストにあって完全に自由な者とされており,強制的に法律や戒律を守らされるようにして生きるものではありません.

キリストの愛(=神の愛)を知ったクリスチャンは,その愛に応えたいという思いを持つようになります.キリストの愛に応えようとする思いは,必然的に神の愛する正しい生き方をしたいという願いへと向かい,やがて旧約聖書の律法に記された神様の正しい教えに目を向けるようになり,それがクリスチャン生活の指針として非常に有益であることに気づくようになります.律法のある部分は,生贄についての教えなど,イエス様の十字架が実現したことで文字通りの実践にはまったく意味がないものになりました(もちろん文字通りの実践以外の象徴的な学びや教訓を得るためには依然として有益です).一方で,別のある部分は「父と母を敬え」など,今日でも文字通りそのまま実践できるし,そうすべき教えもあります.ただ,重要なのはどれを今日文字通り守るべきかそうでないかということではなく,私やあなたが神に愛されており,この神の愛に答えるためにもっともふさわしい方法はどんなものであるかをよく考え,導きを求めることです.

ご質問で例としてあげられている「10分の1献金」は厳密には律法の教えの実践そのものではありませんが,律法において神への捧げものの分量としてよく出てくる比率であり,律法の文字通りの実践に非常に近いものだと思います.教会によっては,収入の10分の1を献金とすることをほとんど義務のようにしてしまっているところもあるかもしれませんが,それは全くの誤りです.クリスチャンが神に仕え,神に何かを捧げるのはキリストにある自由をもって愛のゆえにそうするのであって,強制されてではありません.ただ,別の見方をすれば,一切自由なのですから,10分の1を超える割合を(それこそ全財産でも)捧げてよいのです.律法の一端を取り上げて,その数字をまるで絶対の戒律のように扱うことは,キリストの御霊によって仕えるべきクリスチャンにはふさわしいことではありません.

新約聖書のローマ人への手紙から今のクリスチャンに適用されるというのは,四福音書使徒の働きの中に書かれた時代的な区分を踏まえての考え方だと思われます.つまり,四福音書の内容のほとんどはイエス様が生きておられた時代を書いており,イエス様の十字架がまだ実現しておらず,時代的な区分で言えば旧約の時代に属していると考えられます.また,使徒の働きにおいては,福音は最初エルサレムにおけるユダヤ人の救いから始まり,徐々に異邦人を含む全世界へと広がっていく過程が記されており,本当に異邦人が救われるのか,モーセの律法を異邦人にも守らせなくてよいのかなどが争われた記事が記されており,福音の真理が教会の中で確立されていく過渡的な部分が多くあります.これらのことを踏まえて「今のクリスチャンへの適用はローマ人への手紙から」という考え方をすることはある程度理解できます.しかし,なんの前提もなしに「今のクリスチャンへの適用はローマ人への手紙から」とただ述べることは誤解を招くと思います.実際には福音書の中にも使徒の働きの中にも今日のクリスチャンに対する直接的教えとして「適用」してよい部分は多くあり,直接当てはまらない可能性が大きい箇所があったとしても,教訓的にであればすべての箇所は今日のクリスチャンに「適用」可能です.四福音書及び使徒の働きにおける教えの中で,今日のクリスチャンに直接適用できるかどうか議論の分かれる部分もあります.それはご質問にあるイザヤ等の預言書についても同様です.預言書は特に解釈も難しく,その直接的適用範囲についても様々な議論があります.その詳細を今議論することはしませんが,しかし,神に対して誠実な思いを持って,聖書の御言葉から自分の歩むべき道を教えてもらいたいと願う我々クリスチャンに対して神は様々な方法をもって語ってくださると思います(誤解を誤解として教えてくださることも含めて).

結論としては,創世記から黙示録に至るまで,どんな箇所であっても今日のクリスチャンに適用することは可能です.特に,象徴的あるいは教訓的な意味合いでならまずどんな箇所を適用してもほとんど問題ありません.しかし,直接的に語られている対象としてという意味では,今日のクリスチャンにはまったく適用できない箇所もあります.また,今日のクリスチャンあるいは今日のクリスチャンを含めた人々のことを直接的に指して語られているか,議論の別れているところがあり,慎重に判断する必要があります.