レギオンに憑かれた人②――罪の抵抗

前回記事:レギオンに憑かれた人――罪の支配 - mushimorix’s diary

【新改訳改訂第3版】マル
5:6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、
5:7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
5:8 それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言われたからである。
5:9 それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。
5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。
5:11 ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。
5:12 彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」
5:13 イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。

 6節の、彼が遠くからイエスを見つけ、駆け寄ってきたことはマルコだけが記しています。遠くから見つけるというのは、彼がその対象に注意を払っていたということを意味しています。どうでも良い相手やものだったら、遠くから気づくということはありません。駆け寄ってくるというのも同様です。彼にとって重大なことだったので、彼はのんびりせず走ったのです。また、彼はイエス様を拝しました。彼はイエス様が神の子であるということを知っており、その権威に対してひれ伏しました。さらに彼のイエス様に対する懇願は大声の叫びでした。非常に必死な態度であることを示しています。端的に言えば、彼はイエス様が来ることを恐れていました。イエス様の何を恐れるのでしょうか。それは今の自分が変えられてしまうことです。
 彼がイエス様を迎えた態度は、5節までの非常に強力にこの人を支配していた力を考えると、とても対照的に見えます。誰も抑えることのできなかったこの人を、自分からひれ伏させ、懇願させるということは、この人の目の前にいるイエス様がいかに強大なお方であるかということを示しています。
 しかし、彼はイエス様に全面的に従ったわけではありません。イエス様は汚れた霊に、「この人から出て行け」と言われたのですが、彼は「いったい私に何をしようというのですか」「どうか私を苦しめないでください」と言って、すぐに出て行きませんでした。「何をしようというのですか」の部分は、「何の関わりがありますか」と訳しているものもあります。つまり彼の言葉は、イエス様に従おうとしているのではなく、何とかしてイエス様のなさろうとしている行動を思いとどまってもらおうとしているのです。
 さらに興味深いことに、この悪霊の言葉は、はっきりと悪霊が言ったものだとは書いてありません。実際に言葉を発したのは悪霊に憑かれた人の口です。つまり、悪霊が言ったことであるとも、悪霊に憑かれた人自身が言ったことであるとも受け取れるのです。
 前回見たように、この悪霊に憑かれた人の様々な異常な行動は、罪に支配された人の様々な特徴として覚えることができます。同様に、彼がここでイエス様に逆らう懇願をしている姿も私たち自身の罪の姿として覚えることができます。すなわち、自分の元を訪ね求めてきた救い主を拒む姿です。
 前回覚えたように、罪に支配された私たちの姿は大変悲惨なものです。普通に考えると、そこから救われるというのなら、私たちはすぐにでも喜んで救ってもらおうとするのではないでしょうか。しかし、実際はそうではありません。非常に多くの場合、私たちは救い主が手を差し伸べても、それに抵抗します。
 罪の力は私たちにとって抗いがたい魅力を持っています。その偽りの魅力が私たちを救い主に抵抗させます。偽りの安心、偽りの喜びが私たちを引き留めるのです。私たちはそれを捨てようとはしません。
 彼に憑いた悪霊の名前を見てみましょう。彼の名はレギオンです。それはイエス様が尋ねることによって明らかにされました。イエス様が彼の名を「尋ねた」という部分は原語では未完了形で、何度も繰り返し尋ねたということのようです。つまり悪霊は自分の名前を出し渋ったということになります。名前はその存在の本質を表します。悪霊はその本質が明かされてしまうことを嫌いました。本質が知られれば、そこに狙いを定めた本質的な対応を取られてしまうからです。
 悪霊自身が言っているように、この名前の意味は、非常に大勢であるという意味でした。これは悪霊の名前であると同時に恐らくは悪霊に憑かれた人自身の罪の本質でもあったのではないでしょうか。
 大勢であるというのは、私たちにとって偽りの安心感を与えてくれる代表的なものです。それは自分自身の真実の状態から目を背けさせます。実際には、この人は自分の家に帰ることができず、家族とも離れ離れであって、社会からも切り離されていました。
    大勢であることは、私たちの人生にとって何の保証にもなりません。それは彼に憑いていた悪霊が乗り移った豚の群れの末路を見るとよくわかります。二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、おぼれてしまいました。
    このような豚の行動はまったく異常なものですが、罪によって支配された人の人生は同じようなものです。周りの人々がすべて異常であれば、異常だとは気づかずに自分も同じ行動を取ります。
 ですから、罪に支配されるというのは、自分を見失うということでもあります。自分を見失って、レギオンの中に、すなわち大勢の中に自分を埋没させてしまいます。
    ある意味で、このレギオンは私たち全ての人の中にいます。それは私たちの人生を背後で支配する罪であり、自分を大勢の中に見失わせる力です。そしてこの記事に出てくる人がイエス様に対して「自分と何のかかわりがあるのか」「自分を苦しめないでください」と言ったように、私たちのレギオンは救われることに抵抗します。本当は罪に苦しんでいるのですが、支配されていること、自分を見失っていることの方が楽だと思ってしまうからです。罪が暴かれることへの苦痛の方が、救いを求める心にまさってしまうのです。
 しかし、まさにイエス様はその強い抵抗する力を打ち破って救いを与えてくださるのです。