質問への答え:伴侶が得られない人生をどう受け入れればいいと思いますか?

【伴侶が得られない人生をどう受け入れればいいと思いますか?】


これはとても難しい質問だと思います.正直に言って,どう答えたら良いのか,私にはわかりません.

パウロは,神の啓示ではなく自分の意見であると断った上で,独身であることが結婚するより良いことであると述べています.今日の我々にとっては,そのパウロの言葉が聖書として残されていることから,やはり独身の方が結婚よりもよいのではないかという意見に傾きます.

しかし,それはある意味理念上の話,あるいは選択肢があった上での話だと思います.現に伴侶を得たいと望んでいる人に対して,独身の素晴らしさをいかに説いたところで,それがなにかの慰めになる可能性は低いのではないかと私は思います.


独身についてイエス様が語った唯一の箇所として,マタイ19:11-12があります.不貞以外の理由で妻を離別する者は姦淫を犯しているののだと語ったイエス様に対して,弟子たちが妻に対する夫の立場がそんなものなら結婚しないほうがましだと言い,それに対してさらにイエス様がお答えになった言葉です.


「しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。 母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」」


ここでのイエス様の言葉の意味を汲み取るのは難しいのですが,全体としては独身者になることがそれほど簡単なことではないと言っているように思われます.弟子たちは独身を簡単に,軽く考えていました.気に入らない妻と離縁すこともできないようながんじがらめの結婚をするくらいならいっそのこと独身の方がいい,それが弟子たちの考えでした.独身とは自分の都合で好き勝手に選べる選択肢の一つ,弟子たちの捉え方はそのようなものだったと思われます.しかしイエス様は,独身とはもっと厳粛で重いものだと示されたのだと思います.

この前の箇所では,イエス様は結婚の尊さを宣言し,モーセから続いてきた教えに反して,離婚は神の前に認められるべきではないことを明言しました.その,本来の結婚の尊さ,それを全うすべき責任の重さ,それに耐えられない人間の弱さが,弟子たちの安易な反応を引き起こしたと思われます.イエス様の語る結婚は潔癖すぎる,そんなものには耐えられないから独身"でも"いいや,という苦し紛れの逃げ道のつもりでの「独身」が弟子たちの考えた「独身」でした.

しかし,独身はそのような安易なものではないとイエス様は示したと思います.それは,イエス様は独身を強いられること,あるいは独身を選ぶことの困難さを深く理解しておられたということでもあると思います.

クリスチャンとしては,ありきたりですが伴侶を求めるときにはやはり神に祈り求めるということが第一だと思います.もし祈りによって神に伴侶を求めたことがないのなら,まずそれをしてみてほしいと思います.あなたがクリスチャンでなかったとしても,その祈りには意味があります.クリスチャンとして祈るのであれば,御心の人が与えられるようにと祈ることを勧めます.御心の人との結婚によって,御心の実現が成ることを求めるという思いで願うことを勧めます.個人的な希望をできる限り捨て去り,ただ御心のままにと願う,そのような祈りを神は聞かれると思います.

個人的な希望を捨て去るということは,結婚できない可能性をも受け入れなければならないのか,そのように思われるかもしれません.ここには祈りについての核心的な事柄があるかもしれません.

サムエル記の最初の方に出てくる預言者サムエルの母ハンナのことを考えてみたいのですが,彼女は不妊の女で,子どもが与えられないことに苦しみ,男の子が与えられることを神に切望して祈り求めました.しかし彼女の祈りはただ男の子を求めるのではなく,与えられた男の子を神のものとしてその一生を捧げることを含んでいました.子どもが与えられずに苦しんでいるのに,与えられたらその子どもを神に捧げることを約束するなんて矛盾している,普通に考えるとそう見えます.しかしハンナは自分の求める自分の子供という願いを捨て,神の求める子供を求めることで,その子供を手放す代わりに5人の子供をその後で授かりました.

神から祝福を得る時に,今自分が握っているもの,自分の心を支配しているものを手放すことが必要であることがあります.神の祝福はそれを求める者の願うところをはるかに越えている,ということを聖書を読んでいるといつも思わされます.

結婚できないことが神の御心かもしれないのでは,神の御心にまかせて結婚を求めることには意味がない,果たしてそうでしょうか.神への信頼というものはまさにこのようなところにあるのではないでしょうか.