質問への答え① 神への感謝

Peingの質問箱で2つ続けて質問をいただきました.以下はその質問と私の回答です.質問が2つですので,記事もそれぞれの質問ごとに1つずつとなります.

 

質問1

peing.net

勝手に造ったのも生かしてるのも神なのに、なんで養ってくれることに対して?(実際クリスチャンが何を感謝してるか知りませんが)「神に感謝」しなくちゃいけないのでしょうか。発想が毒親っぽくないですか?(当方クリスチャンです)

 

 回答1

ロマ 1:21 彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。

 

ヘブル 12:10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。



 感謝するという行為には,2つの側面があると思います.一つは,自分に対して何か良いことをしてくれた人に対しては感謝すべきだという義務の感覚です.もう一つは,ぜひとも感謝したいという自発的な感覚です.

 このうち,義務の方については,ある場合抵抗を覚えることがあるかもしれません.自発的に感謝したという自然な思いが湧いてくる前に,「このことにあなたは感謝すべきだ」という義務的な要求を先にされると,何か不当なことを言われたような気持ちになるのは往々にしてあることだと思います.

 ただ,義務的な感謝というのが間違ったものかというと,そうとも言えないと思います.親切な行為に対して一言の感謝の言葉もない場合,それはかなり失礼なことだという感覚を私たちは持っているのではないでしょうか.社会的に,「こういう時には感謝すべき」という義務的な感謝の規範が働く場面は実際のところかなり多いのではないかと思います.

 では,神様が私たちを造り,生かして養っていることについてはどうでしょうか.ご質問では神に感謝すべきというのが毒親のような発想ではないかと言われているので,神様の前に人間の親について考えてみたいと思います.

 聖書から見ると,人間の親子の関係は神様と人間の関係を象徴的に表すものとして神様が造られた関係だと言えます(もっと根源的な親子関係は父なる神様とイエス様との関係だと思いますが今は省きます).神様は人間にとって親のような方であり,人間は神様にとって子供のような存在です.人間の親子に普遍的に見られる関係や,その最良の状態を通して,神様はご自身と人間とのあるべき姿を示そうとしておられるのだと考えられます.

 しかし,ここで注意しておかなければならないのは,アダムとエバの罪以来,人間は堕落してしまい,神様が最初に意図されていたような完全な姿からは,かけ離れた存在になってしまっているということです.堕落の影響は親子の関係にも及んでおり,神様が本来意図していたところから離れた,破壊された親子関係が人間の世界には蔓延しています.

 聖書の中にも,破壊された親子関係の問題が色々と出てきます.イサクとリベカが双子の息子のヤコブエサウを片方ずつ偏愛したこと,ダビデとアブシャロムの戦い,自分の子供達を皆殺しにしたアタルヤ,イエス様に目を開けられた盲目の人を見捨てた両親,自分の娘にバプテスマのヨハネの首を要求するようにそそのかしたヘロディアなどの例をあげることができます.

 このように,現在罪の影響下にある人間の親子関係はしばしば悲惨な状況を生み出してしまっています.虐待と呼ばれるようなことも,罪によって堕落した影響から生じてくるものです.そして,これらは本来のあるべき真の親子関係とは異なったものです.

 人間にとって最善の親子関係,真の親子関係は,神様を信じる者が神様との間に築く関係であり,最終的に罪が完全に消え去った時に現れる関係です.この関係は今現在罪のある状態で私たちがこの地上で経験する肉体的な血の繋がりによる親子関係よりもはるかに優れたものであり,この究極の親子関係に比べれば,今現在クリスチャンの家庭で比較的信仰的にうまく築かれている親子関係でさえ霞んでしまいます.

 ですから,罪によって堕落した親子関係から類推して,罪の存在しない真実の完全な親子関係のことを考えるのは誤りです.

 そうして,あくまで神様が完全なお方であることを前提とした上で,なぜ神様に感謝すべきかといえば,そうするべきだから,という以上の答えを見出すのは困難です.神様は絶対的な権威者であり,何が人間のなすべきことであるかを決めるのも神様のみこころ次第です.徹頭徹尾,人間の人生の主導権は神にあります.

 

ロマ
9:20 人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
9:21 陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。

 

 このように神様の絶対的な権威について語ることは,しばしば人間の心に反感を抱かせます.人間には罪によって神様に逆らう心が湧き出てくるようになっているため,神の権威を認めることは難しくなってしまっています.

 もし,このような絶対的な権威と主導権を主張するのが,人間の親であったなら,私たちがそれを受け入れるのは非常に難しいと思います.しかし,神様は完全なお方であり,何が人間にとって最も幸いであるのかを知り,それを人間に与えようとしておられるお方です.人間の親が子供に要求する感謝は,ある場合理不尽かもしれませんが,神様が人間に感謝を要求されるときは,確実に人間にとって最善の幸福を備え,与えられている,ということを覚える必要があります.間違いなく最善のものを与えられているのなら,そこに感謝はある”べき”としても問題ないのではないでしょうか.

 

ロマ
9:22 それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。
9:23 しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。

 

 しかし,神様が本当に自分にとって最善のものを用意し,与えているのか,と疑問に思われるかもしれません.実はそこにこそ信仰が求められます.神様は私のために最善のものを備え与えてくれている,そこに真実の愛があると信じるなら,私たちは感謝できます.義務の感謝が自発の感謝と一つになります.

 また,さらに言うなら,人間の親に対する感謝も,実は神様に信頼することによって初めて可能になります.不完全な人間の親と違う完全な親である神様のことを強調しましたが,神様は十戒の中で「あなたの父と母を敬え」と,人間の親に対する敬愛を示すようにもはっきり命じておられるのです.それどころか,この命令は(人間との関係において)「第一の戒め」と書かれており,またそれを行うことで地上での幸せで長寿の生涯を約束された命令でもあります.

 

エペソ

6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。

6:3 「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。

 

 目の前の不完全な親のことだけを見ていたら,私たちが親を敬うということはしばしば困難になります.しかし,親の権威の根本には神の権威があること,親への敬意の根本には神への敬意があり,神からの素晴らしい祝福の約束があることを見据えるなら,親を敬うことを通して神様を敬うことをも学ぶことができるのです.