レギオンに憑かれた人――罪の支配

【口語訳】マル
5:1 こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
5:2 それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。
5:3 この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。
5:4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。
5:5 そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。

新約聖書の中には、色々な悪霊に憑かれた人の記事が出てきます。多くはイエス様がそれらの悪霊を追い出したという記事の中で出てきます。他にも、イエス様の弟子たちが悪霊を追い出したという記事もあります。
この記事に出てくる悪霊に憑かれた人は、色々な悪霊に憑かれた人の記事の中でも、特に強烈な印象を与えます。
この人は、墓場に住み、足枷を砕き、鎖を引きちぎり、夜昼となく墓場や山で叫び続き、石で自分のからだを傷つけていた、とあります。これでもかというくらいに悲惨な状況が書かれています。一般社会から完全に切り離され、共同体の一員として生活することができない人です。
このような人について、私たちは自分と全く関係のない人のように思うかもしれません。しかし、聖書はあらゆる記事を通して、私たち全ての人間に当てはまる姿について教えています。この記事に出てくる人も例外ではありません。特に、聖書は、人間の悲惨な状態の根源にあるのはその罪であることを教えており、あらゆる人間の悲惨は罪から来るものであることを教えています。ですから、悪霊に憑かれた人の悲惨な状態も、すべての人に当てはまる特徴を実は持っており、罪に支配された人間の悲惨な状況について、すべての人に当てはまることを教えているのです。
まず、この人は墓場に住んでいました。墓場というのは本来、人が住む場所ではありません。そこは死者のからだがあるところです。このことは、彼がある意味で死んだ状態であるということを象徴しています。つまり、彼の住処が墓場であったということは、彼が霊的に死んでいたということを意味しているのです。そしてこれは私たち全ての人の事でもあります。私たちはこの悪霊に憑かれた人と同じように、霊的に死んでいる状態です。霊的に死んでいるというのは、まことの神様の前にあるべき状態にないということです。そしてそれが罪です。神の前になすべきことをせず、してはならないことをしているのです。
次に、この人のことを取り押さえておくことが誰にもできなかったということが書いてあります。これは、罪の状態が人間には解決できるものではないということを表しています。世の中には、厳しい修行をして、自分の欲を断ち、精神を高めようとする宗教があります。あるいはもっとポピュラーなところでは自己啓発セミナーとか、メンタルヘルスのマネジメントとか、心の調子を整えて快活な生活をしようとする様々な手法があります。それらには確かに効果のあるものもあるでしょうし、生活のために必要としている人もいると思います。しかし、どんなに効果のある手法であっても、それが人間の考えだした者である限り、罪という問題を解決することはできません。どんなに善良な人間になろうと思っても、私たちは決して良い人間にはなれないのです。それは自分の中にある罪を消すことができないからです。どんなに罪を消そうと思っても、悪い思いは必ず私たちの心からあふれ出てきます。まさに、足枷を砕き、鎖を引きちぎるような、異常な力で私たちを支配するもの、それが罪なのです。
また、彼は夜昼となく叫んでいました。夜昼となく、ということは、その異常な活動に途切れがなかったということです。罪の力も同じです。それは私たちの内に夜昼となく働き、休むことがありません。一日の内、一時間だけでも罪の全く消えさる時間があったらどんなにいいでしょうか。しかしそういうことはありません。私たちは24時間365日、いつでも罪を犯させようとする罪の力に晒されており、それに抗う力を持っていないのです。また、叫びについてはどうでしょうか。ここでの叫びは、金切り声のような耳障りな音を暗示する言葉が使われています。それは無意味なものであり、聞く者に恐怖や不安、不快感を与える声でした。叫んでいるわけですからそれは大声であり、遠くまで良く聞こえたと思います。素晴らしい歌声や、感動的で素晴らしいことば、優しい言葉が良く聞こえたら素晴らしいですが、彼の叫びは言葉にもならない、単なる不快な叫びでした。罪によって支配された私たちのことばも同じです。罪に支配されている人間は、本質的に意味のある良い言葉を話すことができません。そして耳障りで無意味なことばを話します。時折優しい言葉を言うかもしれませんが、それには真の神への信仰という裏付けのない、その場限りのものであるという点で、やはりむなしいものです。何年か前に、こんな言葉が書かれているのを見ました。それは社会人になったばかりの若い人のことばです。「学生の頃は人の陰口を言うような人間は信用できないと思っていた。社会人になったら、逆に人の陰口を言わないような人間は信用されないということが分かった。」つまり社会人の多くにとって、誰かの陰口を一緒に言い合うことが重要な連帯意識の表れであるということです。私が前に勤めていた会社も確かにそんな感じでしたので、この言葉は非常に実感を持って共感できます。多くの人が、汚れたむなしい言葉を社会生活の必需品のようにして生きています。
そしてこの人は石で自分のからだを傷つけていました。私たちは普通、自分のからだを自分で傷つけることはしません。痛いのは嫌だからです。大きなけがをすれば死ぬこともあります。普通は自分のからだは傷つかないようにいたわるものです。ですから自分のからだを傷つけるというのはやはり異常な行為です。精神医療の世界では、自分を傷つける自傷行為精神疾患の症状の一つとして扱われます。しかしこの自分を傷つけるという行為もまた、単なる異常な行動ではなく、私たち全ての人間の罪の現実を教えています。つまり罪は自分を傷つけるものだということです。罪を犯すことによって私たちは自らの不幸を増大させます。一時的な欲望の満足はあるかもしれませんが、結局は悲しみや不安に陥ったり、人間としての尊厳を損なったりすることになります。そして罪は神の前に人間が裁かれるべき存在であることを示します。その行きつくところは永遠の地獄の苦しみです。罪は自分自身を破滅に追い込みます。まさに自分を傷つける人の姿です。

 

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