第二ヨハネ3節は恵みとあわれみと平安が「あるように」か「あります」か

(口語訳)ヨハネの手紙第二

1:1長老のわたしから、真実に愛している選ばれた婦人とその子たちへ。あなたがたを愛しているのは、わたしだけではなく、真理を知っている者はみなそうである。

1:2それは、わたしたちのうちにあり、また永遠に共にあるべき真理によるのである。

1:3父なる神および父の御子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安とが、真理と愛のうちにあって、わたしたちと共にあるように。

以下はこちらのページ にあるHenry AlfordのGreek Testament Critical Exegetical Commentaryの第二ヨハネ1-3節までの注解の翻訳.個人的なメモ以上のものではなく,文章としてはほとんど読むに堪えないものです.第二ヨハネ3節の最後の部分が,恵みとあわれみと平安とが「ありますように」なのか「あります」なのか,知りたく思ったため,その説明を前後の文章も含めて訳したもの.

 

 1-3.] あて先と挨拶.長老使徒であり,この名称で知られている.:proleggを見よ.”書簡の著者について”)から”その”(”或る”ではない:proleggを見よ.” 誰にその書簡は書かれたか”)選ばれた婦人(同proleggを見よ)と彼女の子供たちοὕς,男性形.恐らく両方の性の母親と子どもたち全体を包括している.:Ⅲヨハネ1:1を見よ.4節は男性形を相対的に息子のみに適用すべきだと考える理由はない.:賞賛のために何人かを選び出していくとき、そこでは、彼は自然に男性形で話す.)に.  私は真理にあって愛している(安易にではなく真実において,as Œc.,ἔστι γὰρ καὶ ἐπιπλάστως(見掛け倒し?) ἀγαπᾷν, στόματι:しかし実際には、そのような真理は、以下に述べるように、彼に従う福音の真理の結果である:“amor non modo verus amor, sed veritate evangelica nititur.” Bengel.Ⅰヨハネ3:18を見よ,また3:19に留意せよ.)また私だけでなく,真理を知っている者皆がそうである( この”皆”(πάντες)を全ての著者の同居人または近隣の者たち(as Grot., Carpzov., De Wette, al.),あるいは個人的に知り合ったすべての人(as Lücke)に限定する必要はない.:これは一般的な表現である.:愛の分かち合いは信仰の分かち合いと同様に広い.), 真理のために(目的:神の真理が彼の子において明らかにされること.Ⅰヨハネ2:4を見よ.),それは私たちのうちにあり,また私たちと共にあるべきである使徒は, 前にἣ μένειを書いたかのように説明を続ける.)永遠に(f. John 14:16, John 14:17.これらのことばは私たちの主のことばの回想である,παρʼ ὑμῖν μένει, καὶ ἐν ὑμῖν ἐστίν.未来時称は願望の表現ではない(たとえばLückeのように何人かが支持するように.;しかしそれがこれからもその色合いと形を取るという信頼の表現である):私たちと共にあるであろうἡμῶνによって使徒は前に導入句でそうしたのと同様に,この挨拶に彼自身を含めている.ἔσται,再度,これは願望ではない:上記を見よ.:私たちは必然的にこの第二のἔσταιを最初のものと結び付けなければならない.しかし、まさに挨拶が伝えられているという事実は、純然な未来のこととしての意味をいくらか修正しなければならず、何か願いをかける性質を導入しなければなりません。それはBengelが言うように,“votum cum affirmatione”――願望はその成就の確信によって表現される.) 

恵み,あわれみ,平安(参照文献を見よ. Trench says well, N. T. Synonyms, pp. 164, 5, edn. 1865,”χάριςは人々の罪を参照し,ἔλεοςは彼らの悲惨を参照する.神のχάρις,彼の自由な恵みと賜物は,咎人としての人々に施されている:彼のἔλεοςは惨めな者たちである彼らに施されている.”そしてこのようにχάριςはいつも最初にくる,なぜなら惨めさが和らげられうる前に,罪を取り去らなければならないからだ:さらにTrenchとDüsterdieckを見よ.εἰρήνηは神の恵みとあわれみの所有と享受の総和であり実質である;cf. ルカ2:14;ロマ5:1(10:15);ヨハ14:27,ヨハ16:33)父なる神からまた父の子イエスキリストから(それらの源泉としての父からのお方であり,彼の偉大な愛である方はそれらを私たちのために布告し,保証されたものとした:父の子イエスキリストから,この重々しい称号は神格の本質におけるイエスと父との一体の説明をさらに完全なものとするために用いられている),真理と愛において(聖なる三位一体における第三格たる聖霊とは理解されない,Lyraの言うように――τοῦ υἱοῦ τ. πατρόςに加えられることはない,“filio verissimo et dilectissimo(本当の最愛の息子),”Barthol.-Petrus (continuator of Estius)とWhitbyの言うように,“ut perseveretis,(続ける?)”によって埋められることはない.Corn.-a-lap.の言うように――ἐν = cumがχάρις ἔλεος εἰρήνηに2つ以上を追加することもできない.Grot., al.ではんくTirinusとSchlichtingが言うように,“per cognitionem veri et dilectionem mutuam: nam per hæc Dei beneficia provocamus, conservamus, augemus:(真実と愛、互いの知識では:この挑戦の利益のために、増加を維持します)?”:しかし本当の意味はこの最後に近似する;――真理と愛は恵み,憐み,平安を受け取り喜ぶための条件となる要素だ.Bengel, Lücke, De Wette, Huther, Düsterdieckの述べるとおりである.)