与えられないしるし

マタ

12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」

12:39 しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。

12:40 ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。

 

マル

8:11 パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。

8:12 イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」

 

 

 何かを信じるために,私たちはしばしばそれが信じるに足る証拠を求めます.聖書が語る事柄についても,多くの人がそれが真実であることの証拠を要求します.

 イエス様が地上におられたときも,イエス様が真実な方であるかどうかについて,やはり証拠を要求する人たちがいました.そのような証拠を求める人たちに対して,イエス様はマルコ8章では「今の時代には,しるしは絶対に与えられません」と言われ,マタイ12章では「ヨナのしるしの他には,しるしは与えられません」と言われました.

 一方ではしるしは絶対に与えられないと言われ,もう一方ではヨナのしるしの他には与えられない」つまり「ヨナのしるしだけ」が与えられると言われています.全く与えられないということと一つだけ与えられるということとは,一見すると矛盾しています.しかし,それぞれの言葉は単純に矛盾しているわけではなく,その言葉のうちに込められた意味があり,その意味を考えると矛盾していないことが分かります.

 まず,「しるしは絶対に与えられない」と言われていることの意味について考えてみます.実際のところイエス様がしるしを行っていたかどうかということを考えてみると,イエス様は確かにしるしをたくさん行っていました.病人を癒し,悪霊を追い出し,死人をよみがえらせていました.イエス様に敵対する人たちでさえ,思わず「あの人が多くのしるしを行っている」と口走っています.

 ですから,イエス様が「しるしは絶対に与えられない」と言われたのは,しるしが行われなかったということではありません.イエス様が多くのしるしを行っているのを知りながら,なおもそれを認めない人たちにとってはどんなしるしもしるしとして受け入れられないということを言われているのです.問題は,しるしを受け取る側の心の問題だという事です.

 次に,ヨナのしるしの他にはしるしは与えられないという言葉について感がえてみます.ヨナのしるしとは何かというと,それはイエス様の十字架のことです.ヨナという預言者が昔,大きな魚に飲み込まれて三日三晩その腹の中におり,再び出てきたということがありましたが,同じようにイエス様も十字架の死後三日三晩墓の中におられ,そして復活して墓から出てきました.そのことを指してヨナのしるしと言われています.

そしてそのヨナのしるしだけが与えられるということをイエス様は言われました.しかし,実際のところイエス様は十字架以外にも様々なしるしとしての奇蹟を行っています.そのこととヨナのしるし以外にしるしが与えられないと言われているのは一見矛盾しているように見えます.しかしイエス様のあらゆることば,行い,わざは,人々を十字架の示す所へと導くことが目的でした.ですから,イエス様が行ったあらゆるしるしの根幹には十字架があり,ヨナのしるし,すなわち十字架をしるしとして受け取るかどうかが他のあらゆるしるしをしるしとして受け取るかどうかの試金石となります.

 イエス様の十字架,それはイエス様に敵対する人々にとっては到底しるしとしては受け入れられないものでした.無残に辱めを受けて犯罪人として殺された男の死が,どうして救い主を示すしるしになり得るのか,イエス様に敵対する人たちには理解できませんでした.しかし,信じる人々にとっては,逆にイエス様の十字架こそが最も確かな真実のしるしです.

 以上のことから,イエス様が「しるしは絶対に与えられない」,「ヨナのしるしの他にはしるしは与えらえない」と言われたのは,十字架を救い主の真実なしるしとして受け入れないなら,どんなしるしもしるしにならない,受け入れない人たちにとっては,全くしるしが与えられないに等しいのだ,ということを意味していることが分かります.

 しるしはすでに与えられ,私たちの目の前にはっきりと示されています.それはイエス・キリストの十字架です.私たちを罪と滅びから救い,永遠のいのちを与えるしるしです.他のしるしはないのです.他に求めているものがあるなら,あなたが求めているものはイエス様のところにはないのです.

第二ヨハネ3節は恵みとあわれみと平安が「あるように」か「あります」か

(口語訳)ヨハネの手紙第二

1:1長老のわたしから、真実に愛している選ばれた婦人とその子たちへ。あなたがたを愛しているのは、わたしだけではなく、真理を知っている者はみなそうである。

1:2それは、わたしたちのうちにあり、また永遠に共にあるべき真理によるのである。

1:3父なる神および父の御子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安とが、真理と愛のうちにあって、わたしたちと共にあるように。

以下はこちらのページ にあるHenry AlfordのGreek Testament Critical Exegetical Commentaryの第二ヨハネ1-3節までの注解の翻訳.個人的なメモ以上のものではなく,文章としてはほとんど読むに堪えないものです.第二ヨハネ3節の最後の部分が,恵みとあわれみと平安とが「ありますように」なのか「あります」なのか,知りたく思ったため,その説明を前後の文章も含めて訳したもの.

 

 1-3.] あて先と挨拶.長老使徒であり,この名称で知られている.:proleggを見よ.”書簡の著者について”)から”その”(”或る”ではない:proleggを見よ.” 誰にその書簡は書かれたか”)選ばれた婦人(同proleggを見よ)と彼女の子供たちοὕς,男性形.恐らく両方の性の母親と子どもたち全体を包括している.:Ⅲヨハネ1:1を見よ.4節は男性形を相対的に息子のみに適用すべきだと考える理由はない.:賞賛のために何人かを選び出していくとき、そこでは、彼は自然に男性形で話す.)に.  私は真理にあって愛している(安易にではなく真実において,as Œc.,ἔστι γὰρ καὶ ἐπιπλάστως(見掛け倒し?) ἀγαπᾷν, στόματι:しかし実際には、そのような真理は、以下に述べるように、彼に従う福音の真理の結果である:“amor non modo verus amor, sed veritate evangelica nititur.” Bengel.Ⅰヨハネ3:18を見よ,また3:19に留意せよ.)また私だけでなく,真理を知っている者皆がそうである( この”皆”(πάντες)を全ての著者の同居人または近隣の者たち(as Grot., Carpzov., De Wette, al.),あるいは個人的に知り合ったすべての人(as Lücke)に限定する必要はない.:これは一般的な表現である.:愛の分かち合いは信仰の分かち合いと同様に広い.), 真理のために(目的:神の真理が彼の子において明らかにされること.Ⅰヨハネ2:4を見よ.),それは私たちのうちにあり,また私たちと共にあるべきである使徒は, 前にἣ μένειを書いたかのように説明を続ける.)永遠に(f. John 14:16, John 14:17.これらのことばは私たちの主のことばの回想である,παρʼ ὑμῖν μένει, καὶ ἐν ὑμῖν ἐστίν.未来時称は願望の表現ではない(たとえばLückeのように何人かが支持するように.;しかしそれがこれからもその色合いと形を取るという信頼の表現である):私たちと共にあるであろうἡμῶνによって使徒は前に導入句でそうしたのと同様に,この挨拶に彼自身を含めている.ἔσται,再度,これは願望ではない:上記を見よ.:私たちは必然的にこの第二のἔσταιを最初のものと結び付けなければならない.しかし、まさに挨拶が伝えられているという事実は、純然な未来のこととしての意味をいくらか修正しなければならず、何か願いをかける性質を導入しなければなりません。それはBengelが言うように,“votum cum affirmatione”――願望はその成就の確信によって表現される.) 

恵み,あわれみ,平安(参照文献を見よ. Trench says well, N. T. Synonyms, pp. 164, 5, edn. 1865,”χάριςは人々の罪を参照し,ἔλεοςは彼らの悲惨を参照する.神のχάρις,彼の自由な恵みと賜物は,咎人としての人々に施されている:彼のἔλεοςは惨めな者たちである彼らに施されている.”そしてこのようにχάριςはいつも最初にくる,なぜなら惨めさが和らげられうる前に,罪を取り去らなければならないからだ:さらにTrenchとDüsterdieckを見よ.εἰρήνηは神の恵みとあわれみの所有と享受の総和であり実質である;cf. ルカ2:14;ロマ5:1(10:15);ヨハ14:27,ヨハ16:33)父なる神からまた父の子イエスキリストから(それらの源泉としての父からのお方であり,彼の偉大な愛である方はそれらを私たちのために布告し,保証されたものとした:父の子イエスキリストから,この重々しい称号は神格の本質におけるイエスと父との一体の説明をさらに完全なものとするために用いられている),真理と愛において(聖なる三位一体における第三格たる聖霊とは理解されない,Lyraの言うように――τοῦ υἱοῦ τ. πατρόςに加えられることはない,“filio verissimo et dilectissimo(本当の最愛の息子),”Barthol.-Petrus (continuator of Estius)とWhitbyの言うように,“ut perseveretis,(続ける?)”によって埋められることはない.Corn.-a-lap.の言うように――ἐν = cumがχάρις ἔλεος εἰρήνηに2つ以上を追加することもできない.Grot., al.ではんくTirinusとSchlichtingが言うように,“per cognitionem veri et dilectionem mutuam: nam per hæc Dei beneficia provocamus, conservamus, augemus:(真実と愛、互いの知識では:この挑戦の利益のために、増加を維持します)?”:しかし本当の意味はこの最後に近似する;――真理と愛は恵み,憐み,平安を受け取り喜ぶための条件となる要素だ.Bengel, Lücke, De Wette, Huther, Düsterdieckの述べるとおりである.)

あばら骨から造られた女

創世記

2:18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
2:19 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。
2:20 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
2:21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。
2:22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
2:23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。
2:24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。

創世2:18-24には,人の助け手としての女が造られる記事が書かれている.

神は人を最初から男と女とに創造されたが(マタ19:4,マル10:6),実際に形作られる時には男が先であり,女が後という順序であった.

女を造るに先立って,神は人のもとにあらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を人のところに連れて来て,その名を人に付けさせたが,それは名をつけるのと合わせて人に助け手を見出させるためであったことが,この名づけの記事が2:18と2:20の助け手に関する言及に挟まれていることから見て取れる.

「人がひとりでいるのは良くない.わたしは人のために,ふさわしい助け手を造ろう」(1:18).

「しかし,アダムには,ふさわしい助け手が見つからなかった」(2:20).

神は野の獣や空の鳥の内に人の助け手としてふさわしいものがないことをご存知だっただろうが,最初から女を与えることをせず,敢えて迂回した方法を取られた.それは女というものが他の動物や鳥にはないふさわしい助け手としての性質を備えていることを人にはっきりと実感させることがひとつの目的であっただろう.比較しうるあらゆる被造物を検討したうえで,最後にふさわしいものが用意されることで,まさにこれこそが待ち望んでいたものだという感覚が引き起こされたことだろう.

 

女は人のあばら骨の一つから造り上げられた.あばら骨から造るということには象徴的な意図がある.あばら骨から人を造り上げることができるのであれば,他のどんな部位でもよかったはずであるが,神は敢えてあばら骨を選んだ.恐らくこれは胸の位置にあることが重要である.本当であれば心臓から造るのが一番象徴的な意味合いとしてふさわしかったかもしれないが,心臓を取っては人が死んでしまうので,取り除いても生命活動に支障のないあばら骨が選択されたと考えられる.あばら骨は胸の位置にある.聖書において,胸は愛の座である.新約聖書の語彙で言えば,ヨハ1:18の「父のふところ」の「ふところ」や,ルカ16:22の「アブラハムのふところ」の「ふところ」またヨハ13:23,:25でイエス様の愛した弟子がその「胸のところで横になっていた」という関係における「胸」の意味に当たるだろう.

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハ1:18)

「さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。」(ルカ16:22)

「弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた.イエスが愛しておられた弟子である.」(ヨハ13:23)

「その弟子はイエスの胸元に寄りかかったまま,イエスに言った.」(ヨハ13:24)

旧約聖書においてはモーセが神からその民を乳母が乳飲み子を抱きかかえるように胸に抱いて約束の地に連れていくよう命じられたことに言及している.ここでの「胸」という語はLXXにおいて上述の新約における箇所の「ふところ」,「胸」と同一である.

「あなたは私に,『乳母が乳飲み子を抱きかかえるように,彼らをあなたの胸に抱き,わたしが彼らの父祖たちに誓った地に連れて行け』と言われる」(民数11:12)

あるいは申命13:6において「あなたの愛妻」と訳されている箇所は,LXXの直訳では「あなたの胸の中の妻」であり,ここでの「胸」という語彙も上述の引用箇所と同一語である.

これらの箇所における胸という部位についての用例から分かるように,神が人の胸の位置にあるあばら骨から女を造ったことはまことの愛の関係を人と女との関係において表すことを目的としていたということである.

また,このあばら骨を取り出す際には,神は瞬間的に無傷で取り出すのではなく,アダムの胸を物理的に切り開いて取り出すという方法を取られた.あばら骨を取り出すにあたってアダムを眠らせたのはこのような外科手術的な行為を目覚めた状態で行えばアダムがショック死するほどの苦痛が生じてしまうからだった.物理的に胸を切り開いてあばら骨を取り出したということは,1:21で「そのところを肉でふさがれた」と書かれていることから分かる.

ここで神様がアダムの肉体を傷つける仕方で女を造り出したということにも大きな意味がある.それはイエス様の十字架の苦しみを通して教会が生み出されたことを表している.

そして人は目覚め,女について「これこそ,ついに私の骨からの骨,私の肉からの肉」という言葉を発した.人自身から造られた女はまさに人にとって自分自身であった.それゆえ男を意味するイシュに対して非常に似通った発音で女を意味するイシャという名をつけ,その互いに一つとなるべき関係を表現した.二人はそれぞれ互いに一人の人間でありながら一心同体となることをみこころとされた.これはキリストと教会の関係を最初に表したものであった.今日まで,罪の影響により男女の関係は破れを被りつつも,真実の夫婦関係はキリストと教会の関係を表すべきものとして示され,神に待望されている.

「教会はキリストのからだであり,すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです.」(エペ1:23)

「教会がキリストに従うように,妻もすべてにおいて夫にしたがいなさい.夫たちよ.キリストが教会を愛し,教会のためにご自分をささげられたように,あなたがたも妻を愛しなさい.」(エペ5:24-25)

「『それゆえ,男は父と母を離れ,その妻と結ばれ,ふたりは一体となるのである.』この奥義は偉大です.私は,キリストと教会を指して言っているのです.」(エペ5:31)

イエス様の「わたしは~である」

ヨハネ福音書にはイエス様が「わたしは~である」と語られた言葉が8種類出てくる.

 

①わたしがいのちのパンです.Ἐγώ εἰμι ὁ ἄρτος τῆς ζωῆς(6:35

①-2わたしはいのちのパンです.ἐγώ εἰμι ὁ ἄρτος τῆς ζωῆς(6:48

①-3わたしは,天から下って来た生けるパンです.ἐγώ εἰμι ὁ ἄρτος ὁ ζῶν ὁ ἐκ τοῦ οὐρανοῦ καταβάς(6:51

②わたしは世の光です.Ἐγώ εἰμι τὸ φῶς τοῦ κόσμου(8:12

③わたしは自分について証しする者です.ἐγώ εἰμι ὁ μαρτυρῶν περὶ ἐμαυτοῦ(8:18

④わたしは羊たちの門です.ἐγώ εἰμι ἡ θύρα τῶν προβάτων(10:7

④-2わたしは門です.ἐγώ εἰμι ἡ θύρα(10:9

⑤わたしは良い牧者です.Ἐγώ εἰμι ὁ ποιμὴν ὁ καλός(10:11

⑤-2わたしは良い牧者です.ἐγώ εἰμι ὁ ποιμὴν ὁ καλός(10:14

⑥わたしはよみがえりです.いのちです.Ἐγώ εἰμι ἡ ἀνάστασις καὶ ἡ ζωή(11:25

⑦わたしが道であり,真理であり,いのちなのです.Ἐγώ εἰμι ἡ ὁδὸς καὶ ἡ ἀλήθεια καὶ ἡ ζωή(14:6

⑧わたしはまことのぶどうの木Ἐγώ εἰμι ἡ ἄμπελος ἡ ἀληθινή(15:1

⑧-2わたしはぶどうの木ἐγώ εἰμι ἡ ἄμπελος(15:5

 

③だけは比喩的な意味が無いように思われ,これを除くと7種類になる.

6:41「わたしは天から下ってきたパンです」を含めると,補語のあるエゴ―・エイミはヨハネ福音書に14回登場することになる.

9:5は日本語だと8:12と区別できないが,Ἐγώがない.

 

 

人を選り分ける目を持つ主

 黙示録のテアテラの教会の箇所について、いぜん上のようなツイートをしましたが、詩篇をめくっていてこのことと関わりのありそうな箇所を見つけたので引用してみます。

【新改訳改訂第3版】
詩11:4-5 「【主】は、その聖座が宮にあり、【主】は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。【主】は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは、暴虐を好む者を憎む。」

 

報いの公然性

【口語訳】
マタ6:4 「それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」

マタ6:6 「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」

マタ6:18「 6:18 それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。」

【テキストゥス・レセプトゥス】

マタイ6:4「ὅπως ᾖ σου ἡ ἐλεημοσύνη ἐν τῷ κρυπτῷ· καὶ ὁ πατήρ σου ὁ βλέπων ἐν τῷ κρυπτῷ αὑτὸς, ἀποδώσει σοι ἐν τῷ φανερῷ」

マタイ6:6「σὺ δὲ ὅταν προσεύχῃ εἴσελθε εἰς τὸ ταμιεῖόν σου καὶ κλείσας τὴν θύραν σου πρόσευξαι τῷ πατρί σου τῷ ἐν τῷ κρυπτῷ· καὶ ὁ πατήρ σου ὁ βλέπων ἐν τῷ κρυπτῷ ἀποδώσει σοι ἐν τῷ φανερῷ」

マタイ6:18「ὅπως μὴ φανῇς τοῖς ἀνθρώποις νηστεύων ἀλλὰ τῷ πατρί σου τῷ ἐν τῷ κρυπτῷ· καὶ ὁ πατήρ σου ὁ βλέπων ἐν τῷ κρυπτῷ ἀποδώσει σοι ἐν τῷ φανερῷ」 

 マタイ6:4、6:6、6:18では、施しと祈りと断食のそれぞれにおいて、それを人に見せびらかすためにではなく、隠れて行うようにという教えが書かれています。そのようにすることで、隠れたところで見ておられる父が報いてくださるという報いについても言及されています。

 この報いについて、テキストゥス・レセプトゥスでは文の最後に「ἐν τῷ φανερῷ」という表現が付いています。欽定訳等では「openly」と訳されており、直訳すれば「公然と」という意味になります。つまり、父の報いは公然と与えられるということです。

 この表現が正しいものであると考える場合、”隠れた”祈りや施しに対して”公然と”報いが与えられるという「隠匿/公然」の対比があるということになります。

 少し文脈は違いますが、現在においては見ることのできない報いを将来において明らかな形で受けることができるという教えは次のようなみことばにも見出すことができます。

1ペテロ1:5-7「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることが分かります。」

 考えてみると、人前でみせびらかすことのないようにという教えは、全く誰にも認められることを求めずに善行を為せという教えではないと思います。人には認められることを求めるべきではないのですが、それは神に認められるためです。人に認められることを求めるのか、神に認められることを求めるのかは二者択一であり、我々の善行はそのどちらかに属しています。

ガラ  1:10 「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。」

1テサ  2:4 「かえって、わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである。」

 

黙示録の三つ揃い大全(網羅版)ver.1

黙示録に登場する三つ揃いになっている事物をまとめました。今回はとりあえず今のところ見つけられたものをすべて網羅しました。

 

1黙示の伝達者(1:1)

①神

②キリスト

③御使い

 注:この三者は並列ではなく、神→キリスト→御使いという順序がある。

2あかしの内容(1:2)

①神のことば

イエス・キリストのあかし

③彼(ヨハネ)の見たすべての事

 注:③は①と②を総合して言っているのかもしれない。

3神の称号の一つ(現在・過去・未来)(1:4他)

①常にいまし(現在)

②昔いまし(過去)

③後に来られる方(未来)

4黙示録の読者への恵みと平安の挨拶が三位一体の神からであること(1:4-5)

①常にいまし、昔いまし、後に来られる方から(父)

②その御座の前におられる七つの御霊から(聖霊

③忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから(子)

イエス・キリストの称号(1:5)

①忠実な証人(証言)

②死者の名から最初によみがえられた方(復活)

③地上の王たちの支配者(支配)

6キリストが私たちを愛してどのようなことをしてくださった方であるか(1:5-6)

①その血によって私たちを罪から解き放ち(解放)

②私たちを王とし(王)

③ご自分の父である神のために祭司としてくださった(祭司)

6再臨における三段階の出来事(1:7)

①彼(キリスト)が、雲に乗って来られる(来る)

②すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る(見る)

③地上の諸族はみな彼のゆえに嘆く(嘆く)

7神の称号(1:8)

①神である主

②常にいまし、昔いまし、後に来られる方

③万物の支配者

8神とキリストの自己呼称(神の分とキリストの分合わせて7回登場)(初回は1:8,最後は22:13)

①アルファであり、オメガである

②最初であり、最後である

③初めであり、終わりである

 

9著者ヨハネの立場、状態、場所(1:9)

①あなたがたの兄弟(立場)

②あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐にあずかっている(状態)

③パトモスという島にいた(場所)

10著者ヨハネがイエスにあってあずかってる状態(1:9)

①苦難

②御国

③忍耐

11ヨハネが啓示を受け取る三段階(1:10-12)

①主の日に御霊に感じ

②後ろにラッパの音のような大きな声を聞いた

③語りかける声を見ようとして振り向いた

注:やや苦しいか?

12倒れたヨハネへ語りかけるイエス様の自己呼称における生きていることの強調(1:18)

①生きているものである

②私は死んだが、見よ、いつまでも生きている

③死とハデスとのかぎを持っている

13イエス様がヨハネに命じる書き記すべきこと(1:19)

①あなたの見た事

②今ある事

③この後に起こる事

14七つの教会の内、最悪と最良の評価の無い中間状態の三つの教会

①ペルガモ

②テアテラ

③サルデス

15イゼベルに関連した三つの裁き(2:22-23)

①この女を病の床に投げ込もう(女)

②この女と姦淫を行なう者たちも、~大きな患難の中に投げ込もう(女の相手)

③この女の子どもたちをも死病によって殺す(女の子ども)

16サルデスの教会に関して勝利を得る者に与えられるもの(3:5)

①白い衣を着せられる

②彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない

③わたしは彼の名を私の父の御前と御使いたちの前で言い表す

17フィラデルフィアの教会の箇所におけるイエス様の称号(3:7)

①聖なる方

②真実な方

ダビデのかぎを持っている方

18フィラデルフィアの教会に関して勝利を得る者に与えられるもの(3:12)

①わたしの神の聖所の柱としよう

②彼はもはや決して外に出て行くことはない

③わたしは彼の上に~名を書き記す

 

19フィラデルフィアの教会の箇所で、勝利を得る者の上に書き記される名(3:12)

①わたしの神の御名

②わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名

③わたしの新しい名

20ラオデキヤの教会の箇所におけるイエス様の称号(3:14)

①アーメンである方

②忠実で、真実な証人

③神に造られたものの根源である方

21ラオデキヤの教会の自己認識(3:17)

①富んでいる

②豊かになった

③乏しいものは何もない

22ラオデキヤの教会に勧められるイエス様から買うべきもの(3:18)

①火で精錬された金

②裸の恥を現さないために着る白い衣

③目が見えるようになるため、目に塗る目薬

23戸をあける者にイエス様がしてくださること(3:20)

①彼のところにはいって

②彼とともに食事をし

③彼もわたしとともに食事をする

24天の御座から起こったもの(4:5)

①いなずま

②声

③雷鳴

25御座の回りの四つの生き物による叫びにおける「聖なるかな」三連続(4:8)

聖なるかな

聖なるかな

聖なるかな

26御座の回りの四つの生き物による叫びにおける神の称号(4:8)

①神であられる主

②万物の支配者

③昔いまし、常にいまし、後に来られる方

 注:内容は1:8と同じだが、順番が異なる(②と③の順序が逆転)。また「昔いまし~」の称号は1:4,1:8では「常にいまし」で始まる。

27四つの生き物が、永遠に生き、御座に着いておられる方にささげるもの(4:9)

①栄光

②誉れ

③感謝

28二十四人の長老が御座に着いている方を礼拝するときの三要素(4:10)

①御前にひれ伏して

②永遠に生きておられる方を拝み

③自分の冠を御座の前に投げ出す

29二十四人の長老の礼拝において、神に帰されるふさわしいもの(4:11)

①栄光

②誉れ

③力

 注:4:9における四つの生き物の叫びにおける要素とは③が異なる(感謝→力)

30御座に座っておられる方の右の手にある巻き物を開くことのできるものがいなかった場所(5:3)

①天

②地

③地の下

31四つの生き物と長老、多くの御使いたち、あらゆる造られたものとその中にある生き物による三段階の頌栄(5:9-13)

①四つの生き物と長老による頌栄(5:9)

②多くの御使いたちによる頌栄(5:12)

③あらゆる造られたものとその中にある生き物による頌栄(5:13)

32第三の封印が解かれて黒い馬が出てきた時に四つの生き物の間で言う一つの声の三要素(6:6)

①小麦一升は一デナリ

②大麦三升も一デナリ

③オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない

33四人の御使い地の四方の風を抑えて吹き付けないようにしている対象(7:1)

①地にも

②海にも

③どんな木にも

34白い衣を着た群衆が受けない苦しみ(7:16)

①飢えることもなく

②渇くこともなく

③太陽も、どんな炎熱も彼らを打つことはありません

35第一のラッパでの血の混じった雹と火のわざわい(8:1)

①地上の三分の一が焼け

②木の三分の一も焼け

③青草が全部焼けてしまった

36第二のラッパでの火の燃えている大きな山のようなもののわざわい(の三段階?)(8:8-9)

①海の三分の一が血となった

②海の中にいた、いのちあるものの三分の一が死に

③舟の三分の一も打ちこわされた

 注:舟は漁が出来ないので自主的に打ちこわされる?=廃業の表現?

37第三のラッパでの苦よもぎと呼ばれる星のわざわいの三段階(8:10-11)

①川々の三分の一とその水源に落ちた

②川の水の三分の一は苦よもぎのようになった

③その水のために多くの人が死んだ

 

 

38第四のラッパでの天体が打たれるわざわい(三分の一の暗黒の災い)(8:12)

①太陽の三分の一

②月の三分の一

③星の三分の一

39第四のラッパの後に中点を飛びながら大声で言うわしのことば(わざわいの到来)(8:13)

①わざわいが来る

②わざわいが来る

③わざわいが来る

 注:この三連続の表現は第5~7の御使いのラッパに対応している。

40第四のラッパの後の三人の御使い(三つのラッパ)はその前までと区別される(8:13)

「あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている」

①第五の御使い

②第六の御使い

③第七の御使い

 注:聖書に登場する7区分は多くの場合4と3のまとまりに分けられる。

41第六のラッパによって解き放された四人の御使いの軍勢の馬に乗る騎兵の胸当ての色(9:18)

①火のような赤

②くすぶった青

③燃える硫黄の色

42騎兵の馬の口から出る三つの災害(9:17-18)

①火

②煙

③硫黄

43もう一人の強い御使いが誓うときに指す方としての神の呼び名における創造の領域(10:6)

①天とその中にあるもの

②地とその中にあるもの

③海とその中にあるもの

44ヨハネが杖のような測りざおではかるもの(11:1)

①神の聖所

②祭壇

③そこで礼拝している人

45ふたりの預言する証人が預言する期間に行使する力(わざわい)(11:6)

①雨が降らないように天を閉じる

②水を血に変え

③思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ

46二人の預言する証人が地を打つ災害の力(11:6)

①思うままに

②何度でも

③あらゆる

47二十四人の長老たちによる礼拝の中での神の称号(11:17)

①万物の支配者

②常にいまし、昔います

③神である主

 注:ここでは「のちに来られる方」が無い。恐らく再臨後だからだろう。

48御怒りの日が何の時であるか(11:18)

①死者のさばかれる時

②御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時

③地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時

49報いを与えられる、御名を恐れかしこむ者たちの三段階的表現(11:18)

あなたのしもべである…

①預言者たち

②聖徒たち

③小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たち

50巨大なしるしにおける女の姿(12:1)

①太陽を着て

②月を足の下に踏み

③頭には十二の星の冠をかぶっていた

51大きな赤い竜の三つの外見的特徴(12:3)

①七つの頭

②十本の角

③七つの冠

52海からの獣の三つの外見的特徴(13:1)

①十本の角

②七つの頭

③十の冠

52海からの獣の三つの外見的特徴その2(13:2)

①ひょうに似ており

②足は熊の足のようで

③口はししの口のようであった

53竜が海からの獣に与えたもの(13:2)

①力

②位

③大きな権威

54悪の三位一体(12:3他,13:1他,13:11他)

①大きな赤い竜(悪魔、サタン、古い蛇)(真の三位一体の神に対応する)

②海からの獣(真の三位一体の聖霊に対応する)

③地からの獣(にせ預言者)(真の三位一体の子に対応する)

55ヨハネが天から聞いた声の三種類の比喩(14:2)

①大水の音のよう

②激しい雷鳴のよう

③立琴を引く人々が立琴をかき鳴らしている音のよう

 

 

56十四万四千人の人々がその前で新しい歌を歌ったところの存在(14:3)

①御座

②四つの生き物

③長老たち

57 14章における3人の御使い(14:6,14:8,14:9)

①もう一人の御使いが中天を飛ぶのを見た

②第二の、別の御使いが続いてやってきて、言った

③第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った

58 14章における3人の御使いが告げた三つの内容(同前)

①神を恐れ、神をあがめよ。

②大バビロンは倒れた。

③獣とその像を拝み、刻印を受けた者への裁き。

59ガラスの海のほとりに立つ人々が打ち勝ったもの(15:2)

①獣

②その像

③その名を示す数字

60巻き物の封印、ラッパ、鉢(封印(5:1他),ラッパ(8:1他),鉢(16:1他)

①七つの封印

②七つのラッパ

③七つの鉢

61かえるのような汚れた霊どもが出てくる三つの口(16:13)

①竜の口

②獣の口

③にせ預言者の口

62淫婦の乗った獣の過去・現在・未来(17:8)

①昔いた(過去)

②今はいません(現在)

③やがて底知れぬ所から上ってきます(やがて現れる)(未来)

63七人の王を表す、獣の七つの頭の過去・現在・未来(17:10)

①五人はすでに倒れた(過去)

②ひとりは今おり(現在)

③ほかのひとりは、まだ来ていません(未来)

63獣の七つの頭の三つの表現(17:9)

①七つの頭

②七つの山

③七人の王

 ※七つの山には大淫婦が座っている

64悪の連合

①大淫婦バビロン

②七つの頭(七人の王)(八番目の獣)(獣)

③十本の角(十人の王)

 ※七つの頭、八番目の獣の関係についてはやや不明瞭

65淫婦・獣の連合と戦って打ち勝つ小羊とともにいる者たち(17:14)

①召された者

②選ばれた者

③忠実な者

66倒れた大バビロンの成り果てた先(18:2)

①悪霊の住まい

②あらゆる汚れた霊どもの巣くつ(牢)

③あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった

 ※「鳥」とは悪霊の象徴的表現かもしれない。

67大バビロンと罪を行っていたそれぞれのカテゴリーの人々(18:3)

①すべての国々の民

②彼女と不品行を行った地上の王たち

③彼女の極度の好色によって富を得た地上の商人たち

68大バビロンの滅亡を嘆く三種類の人々(18:9~,18:11~,18:17~)

①地上の王たち

②地上の商人たち

③すべての船長、すべての船客、水夫、海で働く者たち

69大バビロンの中で見いだされた三種類の人々の血(18:24)

①預言者(たち)

②聖徒たち

③地上で殺されたすべての人々

70天の大群衆の大きい声のようなものの賛美において神に帰されるもの(19:1)

①救い

②栄光

③力

71主の即位と花嫁の婚姻の準備完了を告げる三種のもの(19:6)

①大群衆の声(のようなもの)

②大水の音(のようなもの)

③激しい雷鳴のようなもの

72 19:11-16に描写されるイエス様の三つの称号

①忠実また真実(19:11)

②神のことば(19:13)

③王の王、主の主(19:16)

73さばかれる死者を出す三つの領域(20:13)

①海

②死

③ハデス

74エルサレムの三つの呼び名

①聖なる都

②新しいエルサレム

③花嫁

75これらのことばが真実である(また信ずべきものである)という宣言(19:9,21:5,22:6)

①これは神の真実のことばです

②書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である

③これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです

76ヨハネに黙示を示した御使いがそれらと同じであるところの三種類のしもべたる人々(22:9)

①あなた(ヨハネ

②あなた(ヨハネ)の兄弟である預言者たち

③この書のことばを堅く守る人々

77イエス様の自己呼称された称号(22:16)

ダビデの根

②また子孫

③輝く明けの明星