レギオンに憑かれた人②――罪の抵抗

前回記事:レギオンに憑かれた人――罪の支配 - mushimorix’s diary

【新改訳改訂第3版】マル
5:6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、
5:7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
5:8 それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言われたからである。
5:9 それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。
5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。
5:11 ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。
5:12 彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」
5:13 イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。

 6節の、彼が遠くからイエスを見つけ、駆け寄ってきたことはマルコだけが記しています。遠くから見つけるというのは、彼がその対象に注意を払っていたということを意味しています。どうでも良い相手やものだったら、遠くから気づくということはありません。駆け寄ってくるというのも同様です。彼にとって重大なことだったので、彼はのんびりせず走ったのです。また、彼はイエス様を拝しました。彼はイエス様が神の子であるということを知っており、その権威に対してひれ伏しました。さらに彼のイエス様に対する懇願は大声の叫びでした。非常に必死な態度であることを示しています。端的に言えば、彼はイエス様が来ることを恐れていました。イエス様の何を恐れるのでしょうか。それは今の自分が変えられてしまうことです。
 彼がイエス様を迎えた態度は、5節までの非常に強力にこの人を支配していた力を考えると、とても対照的に見えます。誰も抑えることのできなかったこの人を、自分からひれ伏させ、懇願させるということは、この人の目の前にいるイエス様がいかに強大なお方であるかということを示しています。
 しかし、彼はイエス様に全面的に従ったわけではありません。イエス様は汚れた霊に、「この人から出て行け」と言われたのですが、彼は「いったい私に何をしようというのですか」「どうか私を苦しめないでください」と言って、すぐに出て行きませんでした。「何をしようというのですか」の部分は、「何の関わりがありますか」と訳しているものもあります。つまり彼の言葉は、イエス様に従おうとしているのではなく、何とかしてイエス様のなさろうとしている行動を思いとどまってもらおうとしているのです。
 さらに興味深いことに、この悪霊の言葉は、はっきりと悪霊が言ったものだとは書いてありません。実際に言葉を発したのは悪霊に憑かれた人の口です。つまり、悪霊が言ったことであるとも、悪霊に憑かれた人自身が言ったことであるとも受け取れるのです。
 前回見たように、この悪霊に憑かれた人の様々な異常な行動は、罪に支配された人の様々な特徴として覚えることができます。同様に、彼がここでイエス様に逆らう懇願をしている姿も私たち自身の罪の姿として覚えることができます。すなわち、自分の元を訪ね求めてきた救い主を拒む姿です。
 前回覚えたように、罪に支配された私たちの姿は大変悲惨なものです。普通に考えると、そこから救われるというのなら、私たちはすぐにでも喜んで救ってもらおうとするのではないでしょうか。しかし、実際はそうではありません。非常に多くの場合、私たちは救い主が手を差し伸べても、それに抵抗します。
 罪の力は私たちにとって抗いがたい魅力を持っています。その偽りの魅力が私たちを救い主に抵抗させます。偽りの安心、偽りの喜びが私たちを引き留めるのです。私たちはそれを捨てようとはしません。
 彼に憑いた悪霊の名前を見てみましょう。彼の名はレギオンです。それはイエス様が尋ねることによって明らかにされました。イエス様が彼の名を「尋ねた」という部分は原語では未完了形で、何度も繰り返し尋ねたということのようです。つまり悪霊は自分の名前を出し渋ったということになります。名前はその存在の本質を表します。悪霊はその本質が明かされてしまうことを嫌いました。本質が知られれば、そこに狙いを定めた本質的な対応を取られてしまうからです。
 悪霊自身が言っているように、この名前の意味は、非常に大勢であるという意味でした。これは悪霊の名前であると同時に恐らくは悪霊に憑かれた人自身の罪の本質でもあったのではないでしょうか。
 大勢であるというのは、私たちにとって偽りの安心感を与えてくれる代表的なものです。それは自分自身の真実の状態から目を背けさせます。実際には、この人は自分の家に帰ることができず、家族とも離れ離れであって、社会からも切り離されていました。
    大勢であることは、私たちの人生にとって何の保証にもなりません。それは彼に憑いていた悪霊が乗り移った豚の群れの末路を見るとよくわかります。二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、おぼれてしまいました。
    このような豚の行動はまったく異常なものですが、罪によって支配された人の人生は同じようなものです。周りの人々がすべて異常であれば、異常だとは気づかずに自分も同じ行動を取ります。
 ですから、罪に支配されるというのは、自分を見失うということでもあります。自分を見失って、レギオンの中に、すなわち大勢の中に自分を埋没させてしまいます。
    ある意味で、このレギオンは私たち全ての人の中にいます。それは私たちの人生を背後で支配する罪であり、自分を大勢の中に見失わせる力です。そしてこの記事に出てくる人がイエス様に対して「自分と何のかかわりがあるのか」「自分を苦しめないでください」と言ったように、私たちのレギオンは救われることに抵抗します。本当は罪に苦しんでいるのですが、支配されていること、自分を見失っていることの方が楽だと思ってしまうからです。罪が暴かれることへの苦痛の方が、救いを求める心にまさってしまうのです。
 しかし、まさにイエス様はその強い抵抗する力を打ち破って救いを与えてくださるのです。

黙示録の三つ揃い大全(テスト版)①

こんな感じで黙示録に登場する三つ揃いをまとめています。そのうち完成予定。ちょっと苦しいものもありますが、随時ご意見をください。

黙示録の三つ揃い大全

1黙示の伝達者(1:1)
①神
②キリスト
③御使い
 注:この三者は並列ではなく、神→キリスト→御使いという順序がある。
2あかしの内容(1:2)
①神のことば
イエス・キリストのあかし
③彼(ヨハネ)の見たすべての事
 注:③は①と②を総合して言っているのかもしれない。
3神の称号の一つ(現在・過去・未来)(1:4他)
①常にいまし(現在)
②昔いまし(過去)
③後に来られる方(未来)
4黙示録の読者への恵みと平安の挨拶が三位一体の神からであること(1:4-5)
①常にいまし、昔いまし、後に来られる方から(父)
②その御座の前におられる七つの御霊から(聖霊
③忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから(子)
イエス・キリストの称号(1:5)
①忠実な証人(証言)
②死者の名から最初によみがえられ方(復活)
③地上の王たちの支配者(支配)
6キリストが私たちを愛してどのようなことをしてくださった方であるか(1:5-6)
①その血によって私たちを罪から解き放ち(解放)
②私たちを王とし(王)
③ご自分の父である神のために祭司としてくださった(祭司)
6再臨における三段階の出来事(1:7)
①彼(キリスト)が、雲に乗って来られる(来る)
②すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る(見る)
③地上の諸族はみな彼のゆえに嘆く(嘆く)
7神の称号(1:8)
①神である主
②常にいまし、昔いまし、後に来られる方
③万物の支配者
8神とキリストの自己呼称(神の分とキリストの分合わせて7回登場)(初回は1:8,最後は22:13)
①アルファであり、オメガである
②最初であり、最後である
③初めであり、終わりである

9著者ヨハネの立場、状態、場所(1:9)
①あなたがたの兄弟(立場)
②あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐にあずかっている(状態)
③パトモスという島にいた(場所)
10著者ヨハネがイエスにあってあずかってる状態(1:9)
①苦難
②御国
③忍耐
11ヨハネが啓示を受け取る三段階(1:10-12)
①主の日に御霊に感じ
②後ろにラッパの音のような大きな声を聞いた
③語りかける声を見ようとして振り向いた
注:やや苦しいか?
12倒れたヨハネへ語りかけるイエス様の自己呼称における生きていることの強調(1:18)
①生きているものである
②私は死んだが、見よ、いつまでも生きている
③死とハデスとのかぎを持っている
13イエス様がヨハネに命じる書き記すべきこと(1:19)
①あなたの見た事
②今ある事
③この後に起こる事
14七つの教会の内、最悪と最良の評価の無い中間状態の三つの教会
①ペルガモ
②テアテラ
③サルデス
15イゼベルに関連した三つの裁き(2:22-23)
①この女を病の床に投げ込もう(女)
②この女と姦淫を行なう者たちも、~大きな患難の中に投げ込もう(女の相手)
③この女の子どもたちをも死病によって殺す(女の子ども)
16サルデスの教会に関して勝利を得る者に与えられるもの(3:5)
①白い衣を着せられる
②彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない
③わたしは彼の名を私の父の御前と御使いたちの前で言い表す
17フィラデルフィアの教会の箇所におけるイエス様の称号(3:7)
①聖なる方
②真実な方
ダビデのかぎを持っている方
18フィラデルフィアの教会に関して勝利を得る者に与えられるもの(3:12)
①わたしの神の聖所の柱としよう
②彼はもはや決して外に出て行くことはない
③わたしは彼の上に~名を書き記す

19フィラデルフィアの教会の箇所で、勝利を得る者の上に書き記される名(3:12)
①わたしの神の御名
②わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名
③わたしの新しい名
20ラオデキヤの教会の箇所におけるイエス様の称号(3:14)
①アーメンである方
②忠実で、真実な証人
③神に造られたものの根源である方
21ラオデキヤの教会の自己認識(3:17)
①富んでいる
②豊かになった
③乏しいものは何もない
22ラオデキヤの教会に勧められるイエス様から買うべきもの(3:18)
①火で精錬された金
②裸の恥を現さないために着る白い衣
③目が見えるようになるため、目に塗る目薬
23戸をあける者にイエス様がしてくださること(3:20)
①彼のところにはいって
②彼とともに食事をし
③彼もわたしとともに食事をする

 

グーグル翻訳:J.N.ダービー Song of songs

http://www.stempublishing.com/authors/darby/EXPOSIT/30025E.html

以下はダービーによる↑のURLにある文章を全文グーグル翻訳に入れて出てきた訳文です。

 

ソロモンの歌

JNダービー。

<30025E> 157

後のイスラエル人の性格や性格を確認するために、詩編や預言者たちを調べると、われわれは友情を通じた欺瞞を経験した後、苦しんで苦しんでいる人々を見つけるでしょう。 鳥たちが夏を迎え、地の獣が冬を迎えます。 イザ 18:6。 それは、アッシリアが彼らを押さなくてはならず、獣を押しつぶす国家の状態です。 彼らの国籍の中心で、そして彼らの心が休息していた場所は、国家があって以来決して存在しなかったようなトラブルであり、神が地球上で短時間の仕事をしている時です。

これが全国に広がっていますが、邪悪な者と聖人の影響は大きく異なります。 国民全体は大獣と合流し、偶像礼拝を黙認します。 もう一つは、自分の名前で来て、彼らは受け取ったでしょう。 偶像礼拝の汚れた精神は、他の7つが悪化して、彼らに侵入するでしょう。 彼らは彼らの神をあきらめて、彼らの救い主を拒絶し、反キリストを受け取りました、そして迫害が来るとき、彼らは何を持っていますか? 彼らは自分自身を苦しめ、彼らの王とその神を呪い、上に目を向けると、彼らは地面を見て、悩みや暗闇、苦しみの光景を見て、彼らは暗闇に追いやられるでしょう。

しかし、イスラエルに残された残りの人たち、イスラエルの希望、そしてイスラエルとエホバとの関係についてもっと詳しく述べる必要がありますが、起こっている悪の感覚に目覚め、彼らが逃げなかったすべての手で苦しんでいます。 神の御霊と言葉が心の中で働いています。 彼らは神の民としての民への約束を覚えています。 彼らはエホバに対して忠実を追求し、その理由のために、抑圧されて追い出され、忠実でないイスラエルに嫌われ、迫害された者たちによって圧迫されたが、国民の感覚と自分自身の罪をもたらし、神の手は既に激しい懲罰で彼らに訴えています。 彼らはまだエホバに願って、救い主に敵を打ち、彼らが罪を犯した人と敵対している人と、すべてが暗いと思われる時に約束することを見いだすことは難しいと考えます。 それでも約束はそこにあり、神は必ず聖王のシオンに自分の王を立てます。 申命記32章以降、預言者たちはこのような状態を予測していました。 暗いとひどい、そして人間的に言えば、希望を除いて、たとえ非常に脅威であっても、それは希望を維持していました。

158この詩篇の詩は、詩篇に出会った時々の出来事の様子をよく見ているように、これらの心の希望と悲しみのための神聖な表現を提供しています。 ソロモンの歌の別の性格と、これが残りの人の心と信仰に与えられることをもっと明瞭に引き出すことは、私が今広告に出している唯一の偉大な原則です。 彼らの悲しみの真っ只中に、彼らの国家に特徴的な2つの大きな原則があります。 第二に、エホバを信頼してください。 これらの中で、キリストの御霊は、自分たちを導いてくださって、自分自身とその恵みによって完璧であり、これらの詩篇の中で与えられた表現で、彼らの失敗すべてにもかかわらず自信を表明することができます。彼らは通過していた。 この非常に誠実で、彼らの中にあるキリストの御霊の働きは、必然的に、罪の告白と血の罪悪感への長い失敗へと導きます。 このように、誠実な宣言と罪の告白がどのように一緒に見出されているかを見ることは注目に値します。 それで、ヨブと一緒に、ピーターと共に。 それゆえ、神に目を向けると、憐れみは常に彼らの思考の中で義の前に来る。 彼は彼らが慈悲の対象であるかもしれないということを信じずに彼らを黙らせました。 間違いなく、神は彼の約束を果たすことにおいて正しいのです。 彼らは、通訳者(千人のうちの一人)がそれらを置くことができる場所である、それらを達成させるために真の正しい場所に入る必要があります。 そして、この通訳は、詩篇の中のただのキリストの霊です。 彼は彼らに彼らの罪を告白することにおいて正しい立場を示します。 彼らは慈悲と義を探すことができます。 これらはすべてエホバの道徳的なものであり、最も有益で最も興味深いものです。 詩編と預言者もまた、救いの介入を通して、そして預言者はどんなことであれ、それが新しい契約の下にあることを明白に伝えます。

しかし、ソロモンの歌は私に、私たちに何かをもっと見せてくれるように思えます - 魂が神の教えられている引き出し(すべての人に明らかにされ公開されている隠されたもので実現された効果)ここで比喩的に提示された愛情と、人々に対するメシアの献身的な愛の啓示と、 エルサレムのために、もしあなたが喜んだならば、彼が泣いていたとき、その愚かさで彼が拒否されたとき、その謙虚で指導された心はそれの意識を持つべきです。

それは救世主の愛の祝福を認識して始まります。 彼の名前は、その中の恵みから、軟膏が注がれるようなものであり、腐敗していない人たち、すなわち偶像崇拝と腐敗から自分たちを守ってきた人たち、すなわち黙示録14のように、また、キリストを待っている間に、彼のような特定の意味で苦しんでいる。 次に花嫁(エルサレム)は救い主に描かれているように見えますが、彼女は本当にすべての忠実な人を表しているので「私たち」と言います。 王が現れ、救世主です。 彼はエルサレムを親密に愛している。 これは価値があります。 彼を愛する者は直立者です。 私たちは残党のこの性格を見ました。 第5,6節はエルサレムの物語に、ヤコブの長い迫害と荒廃を語っています。 太陽は彼女を見て、裁判の熱。 彼女の場所は果物のための国家を守ることでした。 彼女は自分のブドウ園を保有していなかった。 次に、7節では、救い主の羊の群れではなく、他人との邪悪な放浪者のようになりません。 神が導かれガイドとして所有していた者たちによって記された道は、神の民の間の証言で、彼女を導くことでした。 これは、彼女を喜ばす救済の証に彼女を導きます。 こうして恵みが彼女の中に引き出されるという彼女の意識(12節)。 当時の時代に適したこれのイメージは、ユダが非難したマリアの行為でした! これは、私たちに彼らが立っている側面とその立場を与えて、花嫁、彼女の場所、および新郎を認識するような紹介文の一種です。

今、それの作用と効果が始まります。 第2章。花嫁は彼女の所を、花婿は彼女のみを所有しています。 彼女はユリ、残りは棘です(2节)。 彼女は自分自身を見つけたキリストの下にあり、本当の祝福された果実を運ぶ人として彼を所有しています。 そして彼の影は彼女を守り、彼女はそれを楽しんで、彼の果実は彼女の喜びです。 エルサレムイスラエルはメシヤの下で復活し、彼を喜ばしくし、彼の下に隠れています。

今、私たちは、詩篇よりも、心の献身的な自信、喜びの泉、喜び、祝福で彼女を圧倒していることより、はるかに多くを見いだしています。 彼もまた彼の愛の中にあり、心の中で彼女は重くて愛の価値を見積もります。 すべての彼女の喜びは、彼の愛の中で彼が休んでいることです(ゼパニヤ3:17を見てください):「彼は喜んで」(7節)私はそうではないとは思っていません。 残りの人は信仰によって喜びに入っています。救い主は自分の花婿で彼らを愛し、自分の残りの心をこれで表現します。

160それは次のことに注意してください。それは彼の抱きしめの鍵ですから、「私の愛する人の声は、彼が来るのです」。 このつながりは偶然ではありません。私たちは7節の形をしています.3:5と8:4の章もあります。 ここで救い主が現れます。 第3章8節の後に、彼は母の(イスラエルの)心の冠のように、彼の婚約者の日に戴冠した平和の王ダビデの息子であるメシア王として戴冠しました。 章8:3,4の後に、花嫁が来ています。 彼女と一緒に荒野から立ち去って、彼女の愛する人に身を寄せる。

ここでは第2章3節に記されている祝福の第一歩に戻ります。彼女はアップルツリーの下で育ちました。 そこに彼女が生まれました。 旧約ではなく、イスラエルエルサレムが真に彼らの祝福を見つけることができたのは、モーセの下ではなく、キリストの下でした。 まだそれはエジプトの下にあった:キリストは、源、彼女の祝福と人生の木だった。 それゆえ、彼女に信頼されているブドウ園の代わりに、思考のつながりのこの部分を完成させるために、彼女は自分自身を保ちません。平和の王子様であるキリストは、バアルハモンに葡萄畑を持っています。 いずれにせよ、それは今やソロモンであり、救い主であり、ぶどう畑を持っています。 私は地球上のキリストの普遍的な支配、人々、今やその実を結ぶブドウ畑を指すと考えるように処分されています。 しかし今は特別なぶどう園がありました。これは今は配偶者の前にあったイスラエルです。イスラエルは恵みによって今ブドウ畑を守っています。 彼女のブドウ畑は彼女の前にあった。 新郎新婦が急いで欲しいとの願いで、この歌は発言を終わらせます。 仲間は彼女のために彼の声に聞きました。 正直な人たちの望みでしたが、配偶者の性格上、彼女はそれを聞くように祈ります。

これはすべて、2つのことを指摘していると思います。 1つは、心が開けられた人々の信仰がイスラエルの祝福、特にエルサレムでのキリストの愛の完全な喜びに入る道です。 この信念を引き出して励ますために、これの予期した感覚がここに用意されています。 エホバはイスラエルとの取引に関して深く重要ですが、救い主が自分の民のために、また自分が選んだ民と都市のために持っている愛の感覚です。 もちろん石ではなく、選挙の座席として。 (シモン132:13,14と比較する - 確かに詩編全体。)

次に、それは信仰を予期することに過ぎず、それを実現するたびに、神の愛で平穏な休息を望むたびに、彼の来ることの考えに従います。 彼女は実際に彼を所有していませんでした。 これは、私が見てきたように、進歩的です。 第2章の終わりには、時が来たという意識があります。 主の恵みは祝福を引き起こして芽を出しました。 (詩篇102を比較しなさい)

それに関連する心臓の様々な練習は、私は詳細に気付かない - 本当の愛情、しかし失敗。 私は、新郎新婦が彼女の花嫁であることを話すだけです。これはただのことです。 キリストは愛する人に彼の承認を与えることができます。 聖人、ユダヤ人や天国は、彼の愛を味わい、喜びで彼の卓越性を説明することができますが、彼に彼を伝えるために彼を取ることはありません。 関係の性格の意識にも進歩があります。 他の場所で気づかれたように、まず「私の愛する人は私のものであり、私は彼です」(チャプ2:16)。 これは関係の最初の意識です。 "私たちは彼を見つけました。" 彼は本当に、自分の愛する人を所有しています(それはそうではありませんでした。 彼は彼女の美しさを楽しんで楽しんでいます。 最初の考えは、 "彼は私のものです" それは、多くの練習の後、彼女の部分での失敗、そして彼女が彼にどのように貴重であるかを保証するまでではありません、彼女は静かな精神で、「私は私の愛する人です」と言います。彼の価値とタイトルはもっと感じられ、よりよく知られています。そして、彼のすべてが私たちのものであり、それでも彼の喜びは彼の民の美しさと恵みにあります。

しかし、この後、私たちは練習ではなく、新郎の思考の表現 - 彼の鳩、彼の汚れていない、1つだけです:国がありますが、多かれ少なかれ彼とつながっているかもしれませんが、 この地にはイスラエルだけがいる。 しかし、彼はそれを見てすぐに、彼は彼らの心に運ばれます。 彼は谷の果実を見に行きました。彼のぶどう畑は、少なくとも栄えているかどうか、そして誠実な真実を表しているかどうかは、彼が喜んだ(アロンの衣にあるザクロのように)生きた果実の徴候を破ることを屈辱の中で目撃する。 それとも、彼は意識していた、彼の魂は彼の喜んでいる人々の2馬車に彼を置いた; 3、および詩篇47:人の9、翻訳の王子(Nadibim)などアモナダブの力は詩篇110のように、であるため。 それゆえ、イスラエルは直ちに2つの軍隊として、またはマハナイムとして古代の神の宿営地になります。*すべてのことが行われ、花婿は自分の美しさをどのように推測しているのか、彼女は再び、彼の祝福は、自分の右の場所でそうだったのです。「私は私の愛する人です。」 彼は愛されていますが、彼女は彼のことです、そして、彼女の心はすべて彼の欲望が私に向かっていることを喜ばせることができます。

{創世記32:2参照。

162これはイスラエルが育った思想であった。 私たちは詩編の中でイスラエルの練習、正しいものを持っています。 しかし、彼女の喜びについてのこの考えは、そこにはほとんど見られません。 しかし、彼らはそれを感じるべきです。 それは恵みが与えることのできる、恵みが与えることができる、恵みが与えることのできる、新しい、そして最も興味深い要素を、彼らの状態の神であり、神の恵みと救済の知識に引き寄せます。

私は、特定のイメージや表現だけではなく、これの構造全体が、イスラエルエルサレムの残りの人々、そして後日のこのすべての中心としての不思議で驚くべき詩のポイントを認めているようです私が言ったように)は、聖書の他のどの部分よりも残っている人のために、何が提供されているのか店舗にあるのかをさらに懸念しています。 私たちはそれがこの詩篇の中の多くの表現と結びついているのを見ましたが、それはその解釈を確認しています。 私が言及した言葉は、その組み合わせとともに、本全体の意図に特有の手掛かりを与えているように見えました。

レギオンに憑かれた人――罪の支配

【口語訳】マル
5:1 こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
5:2 それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。
5:3 この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。
5:4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。
5:5 そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。

新約聖書の中には、色々な悪霊に憑かれた人の記事が出てきます。多くはイエス様がそれらの悪霊を追い出したという記事の中で出てきます。他にも、イエス様の弟子たちが悪霊を追い出したという記事もあります。
この記事に出てくる悪霊に憑かれた人は、色々な悪霊に憑かれた人の記事の中でも、特に強烈な印象を与えます。
この人は、墓場に住み、足枷を砕き、鎖を引きちぎり、夜昼となく墓場や山で叫び続き、石で自分のからだを傷つけていた、とあります。これでもかというくらいに悲惨な状況が書かれています。一般社会から完全に切り離され、共同体の一員として生活することができない人です。
このような人について、私たちは自分と全く関係のない人のように思うかもしれません。しかし、聖書はあらゆる記事を通して、私たち全ての人間に当てはまる姿について教えています。この記事に出てくる人も例外ではありません。特に、聖書は、人間の悲惨な状態の根源にあるのはその罪であることを教えており、あらゆる人間の悲惨は罪から来るものであることを教えています。ですから、悪霊に憑かれた人の悲惨な状態も、すべての人に当てはまる特徴を実は持っており、罪に支配された人間の悲惨な状況について、すべての人に当てはまることを教えているのです。
まず、この人は墓場に住んでいました。墓場というのは本来、人が住む場所ではありません。そこは死者のからだがあるところです。このことは、彼がある意味で死んだ状態であるということを象徴しています。つまり、彼の住処が墓場であったということは、彼が霊的に死んでいたということを意味しているのです。そしてこれは私たち全ての人の事でもあります。私たちはこの悪霊に憑かれた人と同じように、霊的に死んでいる状態です。霊的に死んでいるというのは、まことの神様の前にあるべき状態にないということです。そしてそれが罪です。神の前になすべきことをせず、してはならないことをしているのです。
次に、この人のことを取り押さえておくことが誰にもできなかったということが書いてあります。これは、罪の状態が人間には解決できるものではないということを表しています。世の中には、厳しい修行をして、自分の欲を断ち、精神を高めようとする宗教があります。あるいはもっとポピュラーなところでは自己啓発セミナーとか、メンタルヘルスのマネジメントとか、心の調子を整えて快活な生活をしようとする様々な手法があります。それらには確かに効果のあるものもあるでしょうし、生活のために必要としている人もいると思います。しかし、どんなに効果のある手法であっても、それが人間の考えだした者である限り、罪という問題を解決することはできません。どんなに善良な人間になろうと思っても、私たちは決して良い人間にはなれないのです。それは自分の中にある罪を消すことができないからです。どんなに罪を消そうと思っても、悪い思いは必ず私たちの心からあふれ出てきます。まさに、足枷を砕き、鎖を引きちぎるような、異常な力で私たちを支配するもの、それが罪なのです。
また、彼は夜昼となく叫んでいました。夜昼となく、ということは、その異常な活動に途切れがなかったということです。罪の力も同じです。それは私たちの内に夜昼となく働き、休むことがありません。一日の内、一時間だけでも罪の全く消えさる時間があったらどんなにいいでしょうか。しかしそういうことはありません。私たちは24時間365日、いつでも罪を犯させようとする罪の力に晒されており、それに抗う力を持っていないのです。また、叫びについてはどうでしょうか。ここでの叫びは、金切り声のような耳障りな音を暗示する言葉が使われています。それは無意味なものであり、聞く者に恐怖や不安、不快感を与える声でした。叫んでいるわけですからそれは大声であり、遠くまで良く聞こえたと思います。素晴らしい歌声や、感動的で素晴らしいことば、優しい言葉が良く聞こえたら素晴らしいですが、彼の叫びは言葉にもならない、単なる不快な叫びでした。罪によって支配された私たちのことばも同じです。罪に支配されている人間は、本質的に意味のある良い言葉を話すことができません。そして耳障りで無意味なことばを話します。時折優しい言葉を言うかもしれませんが、それには真の神への信仰という裏付けのない、その場限りのものであるという点で、やはりむなしいものです。何年か前に、こんな言葉が書かれているのを見ました。それは社会人になったばかりの若い人のことばです。「学生の頃は人の陰口を言うような人間は信用できないと思っていた。社会人になったら、逆に人の陰口を言わないような人間は信用されないということが分かった。」つまり社会人の多くにとって、誰かの陰口を一緒に言い合うことが重要な連帯意識の表れであるということです。私が前に勤めていた会社も確かにそんな感じでしたので、この言葉は非常に実感を持って共感できます。多くの人が、汚れたむなしい言葉を社会生活の必需品のようにして生きています。
そしてこの人は石で自分のからだを傷つけていました。私たちは普通、自分のからだを自分で傷つけることはしません。痛いのは嫌だからです。大きなけがをすれば死ぬこともあります。普通は自分のからだは傷つかないようにいたわるものです。ですから自分のからだを傷つけるというのはやはり異常な行為です。精神医療の世界では、自分を傷つける自傷行為精神疾患の症状の一つとして扱われます。しかしこの自分を傷つけるという行為もまた、単なる異常な行動ではなく、私たち全ての人間の罪の現実を教えています。つまり罪は自分を傷つけるものだということです。罪を犯すことによって私たちは自らの不幸を増大させます。一時的な欲望の満足はあるかもしれませんが、結局は悲しみや不安に陥ったり、人間としての尊厳を損なったりすることになります。そして罪は神の前に人間が裁かれるべき存在であることを示します。その行きつくところは永遠の地獄の苦しみです。罪は自分自身を破滅に追い込みます。まさに自分を傷つける人の姿です。

 

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どうしたら聖書を正しく解釈できるか

聖書をどのように解釈すべきかということは、多くのクリスチャンにとって重要な問題です。聖書は神のことばであって、神の御心は聖書によって知ることができますが、誤った解釈をしていれば神の御心を正しく捉えることはできないからです。正しく神の御心を知るためには、正しく聖書を解釈する必要があります。

しかし、私たちはしばしば同じ聖書箇所から互いに異なった解釈を引き出し、それが対立の元になることがあります。同じ群れに属していたとしても、大筋においては一致した解釈を採っているかもしれませんが、それでもところどころ個々人で解釈が異なっているところ、しかも全く正反対の意味に解釈していることがあります。

解釈の違いがあるという現実に対してどう対処するのかという実践的な問題はひとまず置いておき、ここでは、私たちは聖書を正しく解釈できるという前提に立った上で*1、どのようにしたら聖書を正しく解釈できるのかということを考えてみたいと思います。

まず、聖書の中に、聖書をどのように解釈するべきかということが直接説明されている箇所があるかどうか思い起こそうとしてみると、そういう記事は無いように思います。もしもあったら教えてください。

Ⅱペテロ3:16では、(おそらく聖書に収められたもあるであろう)パウロの手紙について、ある人々が「聖書の他の箇所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いて」いるという非難の言葉が記されています。ここでは聖書の解釈の仕方は説明されていませんが、聖書を曲解するべきではないこと、曲解すれば滅びを招くことになることが読み取れます。つまり、聖書は曲解ではない正しい解釈をするべきだということはひとまず言えます。

聖書を正しく解釈するための基準として、私がそれではないかというものとして思い当たるのは、Ⅰコリント2:6-16の箇所です。ここでは、「この世の知恵」と対比された「神の知恵」というものが語られています。その「神の知恵」について、「神はこれを、御霊によって私たちに啓示された」、「御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれる」、「神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」、「この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです」、「御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです」、と記されています。まとめて言うと、神の御心は御霊によって知るのであり、それ以外のものによっては知られえない、ということになります。

これを聖書解釈に当てはめて考えると、聖書の正しい解釈は御霊によって為すことができ、それ以外のものによっては為すことができない、ということになります。

これによって、正しい聖書解釈のための基準をひとまず得ることができました。しかし、すぐに問題に直面します。実際の解釈においてその解釈が御霊によって為された解釈かどうかがどのようにして分かるのか、ということです。

クリスチャンに内住する御霊は基本的に目に見えないものであり、御霊が働いているかどうかも奇跡的な出来事が起きない限り、観察することはできません。そうすると、いくら自分や他の人が御霊によって解釈している、もしくは逆に御霊によって解釈していないと思ったとしても、それを他の人に対して証明する手段はほぼないのではないでしょうか。

終末預言の解釈であれば、実際に終末が来た時にその解釈の真偽がはっきりするでしょうが、すべての聖句がそのような未来の出来事の預言に関わるわけではないし、そもそも未来の出来事にしても、それが起こってみるまでは、解釈だけを見ても真偽が判定できないということになります。

結局、「御霊による解釈かどうか」という基準は、神御自身による解釈と等しいものとして完全な基準ではあるものの、実際に出てきた解釈が御霊によるものかどうかは客観的に判断できない、ということになります。

残された道の一つとして、御霊による解釈かどうかを100%客観的に確定することはできないということを認めたうえで、仮に御霊によって解釈されるなら最低限満たしているであろう次善の客観的な解釈基準を設定し、その設定された判断基準に合致しているかどうかによって御霊によって解釈された可能性が高いか低いかを判断する、ということが考えられます。

たとえば、「文法的に正しい読み方であるかどうか」、「他の聖書箇所と明らかに矛盾していないか」といった基準を、「それを満たしているからと言って必ずしも御霊による解釈になるとは言えないが、御霊による解釈なら満たしているであろう基準」として設定し、これらの次善策として設定された基準を満たすことで、御霊による解釈である可能性を高める、ということです。

しかし、御霊による解釈になる可能性を高めるための設定される判断基準は、その基準自体をどのような基準で設定するべきか、設定の際に恣意的な、御霊によらない(!)判断が入り込む余地があるのではないか、という問題に再び直面することになります。そのような設定を決める際に、御霊の導きを求めて祈ることで、正しい基準を定めることができる、あるいは、正しい基準を定めることができる“可能性が高まる”かもしれませんが、最終的な設定の判断において恣意的なものが絶対に入り込まないとは断言できないでしょう。

私の浅はかな考えでは、このように、御霊による解釈ならば正しいとまでは言えるが、確かにそれが御霊による解釈だと証明するのは非常に困難だ、ということになります。

神様は信じる者に憐み深く、祈り求める者を恵んで導いてくださる方だと信じますので、聖書の正しい解釈についても導いてくださると信じています。今は、様々な互いに異なる聖書解釈が信じる者のあいだでさえ乱立しているのを神はそのままにしておかれていますが、それが終わりの時まで続くのか、一時的なものなのか、私にはわかりません。与えられたものの範囲で、力の限りみことばに取り組んでいきたいと思います。そこには当然、対立する解釈をしている者同士の関係をどうするかということも含まれると思います。

*1:どうして私たちが聖書を正しく解釈できると言えるのか、ということも、ここではひとまず置いておきます

ウォッチマン・ニー『歌の中の歌』読書メモ(2)

ウォッチマン・ニー『歌の中の歌』読書メモ(1) - mushimorix’s diary

続きです。「第一区分 初期の追い求めと満足」の途中から。

1-5 王の語りかけ(1:8-11)

おとめが奥の間で見る3つのものがあげられている。

  1. アダムにある〔自分の〕黒さと、愛する御子にある美しさ。
  2. 外側の働きのむなしさ(神の対処を通してみるもの)。
  3. 霊的な必要。

A 王の答え(1:8)

「もしあなたが知らないなら」――この文の語調は、王が彼女をしっ責しており、彼女はこのようなことをすでに知っているべきであったことを示しているかのようです。(29頁)

そうだろうか? そうかもしれないし、そうではないかもしれない。これは確定的ではないように思われる。

「群れの足跡に従っていって」

「羊の群れの足跡」とは、今日の信者たちの足跡を象徴しています。これらの信者たちは、一つの群れの立場、すなわち召会の立場を取っています。(今日の羊は多くいますが、彼らは一つの群れとして集まっておらず、召会の立場を取っていません)。(29頁)

これはどういうことだろうか。ニーは自分の群れである「召会」を様々なキリスト者集団の中で特権的なものとして位置付けているのだろうか。

群れとは、過去何世代にもわたってわたしたちの前を歩み、すでに世を去った聖徒たちをも象徴しています。(29頁)

 

「足跡」という言葉は、経験を意味します。(30頁)

一つの群れとして集まっていない羊を否定する一方で(?)、過去の聖徒たちについては信仰の先輩としておとめより先に食物と安息を見出した人々として「群れ」の意味するところとして捉えている。

「あなたの子やぎを飼いなさい」

子やぎは、羊ではありません。なぜなら、おとめ自身が羊であるからです。また、群れでもありません。なぜなら、彼女は群れの外にいるからです。子やぎは、彼女よりも若い者たちです。(30頁)

主との個人的な交わり――「食物」と「安息」を求めている間にも、自分より若い幼稚な弟子たちに対する自分の責務を果たすべきだ、むしろそのことによって「食物」と「安息」を得ることにつながっていくのだ、としている。

B 王の賞賛と約束(1:9-11)

「わが愛する者よ、わたしはあなたをパロの車の雌馬になぞらえる。」

「雌馬」は原文では「良い馬」を意味するとしているが、調べた範囲ではそのような意味は見いだせなかった。

9節と10節がおとめが天然の性質において持っている美しさを描写しており、11節は神の働きと、神から来る美しさを描写しているとしている。

9-11節の3つの節で言及されているとされる6つの事柄。

  1. 編まれた髪の飾り輪
  2. 金の飾り輪
  3. 銀の飾りびょう

①馬について

聖書は馬を素早さによって特徴づけているとしている。詩篇147:10の「馬の力」が参照され、「馬が素早いのは、馬が強いから」だと述べ、また雅歌1:4の走ることも引き合いに出している。しかし、これらの説明をもとに、馬という語から素早さという意味を引き出すのは無理があるように思われる。「パロの戦車の雌馬」がすべての馬の中で最も良い馬を象徴しているという説明については、多分その通りだろう。馬はエジプトから来るものとされており(1列王10:28-29*1)、パロの乗車する戦車の馬が最良の馬であることは疑いようがない。

②頬について

「人の美しさは、頬に左右されます。」と述べ、人の最も美しい部分を象徴するとしているが、この説明にはみことばによる根拠が何一つ挙げられておらず、現時点ではこれはニーの思いに過ぎないとしか言えない。

③編まれた髪の飾り輪について

髪の毛はおとめ自身のものなので、彼女の天然の良さを意味しているという。「飾り輪」は髪の毛を編むひもだとしている。しかし、「編まれた髪」が正しい訳であるかどうかははっきりしない。新改訳、新共同訳、口語訳いずれもおとめの髪には言及していない。

④首について

おそらくここでのニーの説明には旧約聖書に頻出する「うなじのこわい民」という表現が念頭にある。首がかたいかそうでないかは、ロバや馬を御するという観点から、従順であるか反抗的であるかという事に関わっている。

首につけられた装飾品は、おとめの天然の柔和さを象徴します。首は堅い部分ですが、今やそれは飾られています。(32頁)

飾られている首=天然の柔和さがある、飾られていない首=かたくなである、という対比で考えられているようである。確かに、聖書における首、しかも馬の首であればそれはかたくなかどうかを表しているので、「柔和」という表現が適切かどうかはやや疑問だが、おおむね受け入れることができるように思われる。

⑤金の飾り輪について

11節におけるこの金の飾り輪と、次の銀の飾りびょうの2つについては、9-10節の4つが天然のものであることと対比して、神から来るものであると捉えられている。

金を打って飾り物にするのにかなりの時間を要するということから、金の飾り輪は「きめ細やかな働き、すなわち神の命のもっとも細やかな表れを象徴」するとしている。しかし、これは聖書から導き出された解釈ではなく、現実の金の物理的・実際的性質から推論したものであり、受け入れられるものではない。

金が聖書の中でどのような象徴的意味を持っているかをはっきりと説明している箇所は無く、その解釈のためにはすべての用例を網羅的に検討して文脈を踏まえたうえで同じ文脈においてすべての用例に適合する解釈を考えるしかない。私の群れでは伝統的に金は義を表すとされているが、恐らくそうだろう。

頬の飾り輪と、金の飾り輪の「飾り輪」が同じ語であることから、天然の性質である髪の編みひもが金の編みひもで置き換えられるのであり、「人の天然の力を、神の義、命、栄光で置き換えることを意味する」としている。個人的には、この天然の力と神の力の対比を見出すのはやや無理やりではないかという気がする。

⑥銀の飾りびょうについて 

銀は贖いを象徴する。おとめの素晴らしさは十字架の贖いを根拠としている。私もニーと同意見である。

ウォッチマン・ニー『歌の中の歌』読書メモ(1) - mushimorix’s diary

*1:「ソロモンが馬を輸入したのはエジプトとクエからであった。すなわち王の貿易商はクエから代価を払って受け取ってきた。エジプトから輸入される戦車一両は銀六百シケル、馬は百五十シケルであった。このようにして、これらのものが王の貿易商によって、ヘテびとのすべての王たちおよびスリヤの王たちに輸出された。」

ウォッチマン・ニー『歌の中の歌』読書メモ(1)

ウォッチマン・ニーの『歌の中の歌』(1999,日本福音書房)を読み始めたのでメモを記していこうと思う。台湾福音書房というところによる序言を見ると*1、この本の内容は「何十年も前にわたしたちの主にある兄弟が、数名の同労者たちに解き放ったものです。(中略)その後、一九四五年、それは時代の必要に応じて、重慶で発行されました。」とある。

 

全体の区分

ニーは雅歌を6つの区分に分けている。

・第一区分 初期の追い求めと満足(1:2-2:7)

・第二区分 自己から解き放されるための召し(2:8-3:5)

・第三区分 召天の召し(3:6-5:1)

・第四区分 復活の後の十字架の召し(5:2-6:13)

・第五区分 神の働き(7:1-13)

・第六区分 肉のうめき(8:1-14)

第一区分 初期の追い求めと満足(1:2-2:7)

この区分は、本書全体のかぎとなる箇所です。霊的な原則はすべてこの区分に含まれており、続いて起こるさまざまな経験を予示する箇所です。後に続く学課は、新たなものではなく、古い学課が深みを増して繰り返されるにすぎません。(17頁)

1-1 慕い求める(1:2-3)

口づけについて、放蕩息子の記事での父親の息子に対する口づけと対比して、ここでの口づけは赦しとは関係ないものであると述べている。信者と主との関係が書いてあるのであって、信者はすでに罪赦されているのだから、赦しを書く必要がない、と。むしろ救われた人が聖霊によって目覚めさせられ、主を尋ね求めるようになることが書かれている。

スネイスと同様に、口づけが「口の口づけ」であることをニーも強調している。頬でも足でもなく、口であることは個人的に親密な関係を表している。

ある信者が聖霊によって、普通の関係に本当に満足できなくさせられて、個人的な愛情を追い求めるようにならなければ、その人が主の親密な経験を得ることは決して期待できません。このように追い求めることが、将来のすべての経験の基礎です。(19頁)

愛がぶどう酒にまさることについては、「わたしたちを楽しませ、歓喜させ、興奮させるもののうち、どれも主の愛に比べることはできないことを、聖霊はわたしたちに示されます。」(20頁)と述べられており、主の愛とこの世のそれ以外のものとの比較を述べていると解釈しているようだ。私もそのような理解をしている。

ソロモンの香油(におい油)の香りとその香油のような名によってソロモンを愛するおとめたちは詩篇83:3の「かくまわれる者たち」(21頁)だと述べているが意味がよく分からない。新共同訳*2では「あなたの秘蔵の民」となっているので、そのようなニュアンスのことを言おうとしているのかもしれない。つまり、おとめと同じように霊的行程を歩んでいる他の者たちがいるということ。

1-2 追い求める(1:4)

主を追い求める思いはあるが、自分の力ではなく、主によって引き寄せていただくことで追い求めることが可能になる。

後について走るという事を、何かをずっと追い求めることだと言っているが、「ずっと」という継続的なニュアンスがあるかどうかは訳からは読み取れない。むしろ「走る」というのは追い求める情熱の強さを表しているのではないか。

スネイスは「私たちはあなたのあとから」の人称に混乱していたが、「私たち」=「おとめと他のおとめたち」、「あなた」=「ソロモン」、次の文の「王」=「ソロモン」だろう。

3節、4節で、おとめ個人の他に他のおとめたちが出てくることについて、私はおとめの求める思いが真に個人的に十分なものになっていないのだというニュアンスの解釈を聞いたことがあるが、ニーはそのような否定的な解釈をせず、「もし一人の人が主の御前で恵みを受けるなら、必ず他の信者たちも彼によって影響を受けます」(23頁)という肯定的な読み方をしている。

1-3 交わり(1:4)

「王は私を奥の間へ連れて行かれました。」

王が彼女を奥の間に連れて行かれたことは、交わりと啓示の始まりを象徴します。(23頁)

 

「王」という言葉は、わたしたちが主をわたしたちの愛する方として知る前に、まず主をわたしたちの王として知らなければならないことを示しています。(23頁)

 

「あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ」から、 尋ね求めることがぶどう酒に結び付けられている箇所としてなぜか箴言23:35の参照が促されているが意味不明である。

【新共同訳】
箴23:35 「打たれたが痛くもない。たたかれたが感じもしない。酔いが醒めたらまたもっと酒を求めよう。」

1-4 奥の間での啓示(1:5-7)

エルサレムの娘たち」とはだれのことでしょうか? これは詩です。ですから、ここのエルサレムは、地上のエルサレムのことを言っているのではなく、天上のエルサレムのことを言っています。(24頁)

詩であるから地上のエルサレムではなくて天上のエルサレムだという論理はよく分からないが、エルサレムが霊的なものとして解釈されるとすれば、天上のエルサレムのことだということに確かになるだろう。天のエルサレムをともに母として頂く他の信者たちのことを指すのだろうか(ガラ4:26*3)。

この者たちは、あまり尋ね求めておらず、冷淡で、何にも気がつかず、不注意な人たちです。ハドソン・テーラーは言いました、「この人たちは、救われた者のように見えますが、かろうじて救われた人たちであるのでしょう」。(25頁)

エルサレムの娘たちについてのここでのニーやテーラーの解釈は私には不可解なものに思える。エルサレムの娘たちの役割は、歌の進行上「合いの手」を入れることにあり、何かを尋ねるにしても“敢えてそうしている”という面があると思われる。劇であれば主要な登場人物たちの背後に並んでその場面にふさわしい「外野の声」を投げかける無名の合唱隊のようなものではないだろうか。ニーやテーラーはエルサレムの娘たちの人格的な性質について不必要な詮索をしているのではないだろうか。

「わたしは黒いけれども、愛らしい。」

彼女は黒くなったのではなく、もとから黒かったのです。それは、アダムにあるすべてを指しています。(25頁)

おとめの黒さについて、ニーはもとからの黒さだと解釈しているが、これには疑問がある。というのは、彼女が黒いのは“日に焼けた”からであり、後天的なものであることが示唆されている上、母の子らが「ぶどう畑の見張りに立てた」ことがその原因とも考えられるからである。しかしニーは「太陽」に原文では定冠詞がついているということから、「日に焼ける」とは奥の間で神に照らされるという意味であり、神に照らされて自分が黒いことを認識するという解釈を下してこの問題を回避している。

「わたしの母の子らがわたしに向かっていきりたち」

ガラテヤ4:26-28から、「母は約束の原則を象徴して」いるとニーは解釈している。つまり、「母の子ら」とは「神の恵みの原則にしたがって神の子供たちとなった人たちのこと」だという。

「子ら」をASVにならって「息子たち」としている。

「息子たち」は、何か客観的なものを象徴します。これらの母の息子たちは、教理において、客観的な事柄において強く、また幾らか権威的です。神に対するおとめの愛と奥の間での訓練のゆえに、彼女の働きはかわりました。彼女の母の息子たちは、彼女を軽んじ始め、また彼女に向かっていきりたち始めます。(27頁)

 つまり、母の子らは約束の子供たちであり救われた者たちであり、おとめに象徴される信者に対して先輩格であり指導的に振る舞うが、しかし杓子定規に外面的な奉仕をさせようとしていたために本来その信者が主に召されている働きをすることと齟齬が生じていきり立っているということのようである。

母の子らが押し付けたぶどう園とおとめの自分のぶどう園の違いについては次のように述べている。

最初に出てくる「ぶどう園」は複数形であり、それは人によって組織されたものです。次に出てくる「ぶどう園」は単数形であり、それは神によって定められたものです。(中略)彼女は、神の照らしを受け入れ、神によって対処された後、自分の以前の働きのむなしさに気づきます。彼女は、人から託されたことを行なっていたのにすぎず、神が彼女のために定められたことを行なっていたのではありません。(27頁)

 「顔おおいをつけた女」のところは「身をそらす」あるいは「さ迷い歩く」という訳に従っているようである。

「どこで羊を飼い」

「飼って」とは、食物を語っています。(28頁)

つまり、彼女は主に直接養われて食物と安息を得ることを尋ね求めている。それは押し付けられた働きと対比させられている。

「昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。」

ニーはこの「休ませる」=「安息」が「昼間」であることで完全な安息を意味していると捉えている。「「昼間」は完全な時だから」だという。「昼間」が完全な時であることの説明には箴言4:18*4と、主の十字架における正午からの苦しみをあげている。

「あなたの仲間の群れの傍らで、わたしはなぜ、身をそらす者のようにしていなければならないのでしょうか?」

ニーはこの群れが主の「仲間」の群れ(信仰集団)であって、「主自身」の群れではないという事を重視しているようである。「傍ら」に置かれているという事は群れから疎外されているという事であり、母の子らがいきり立ったという事に類する描写と見ているようである。「身をそらす」とは恥を受ける事だという。

彼女は、仲間の群れの傍らに置かれ、あざけられ、批判されたために、「主よ、なぜあなたはわたしに教えてくださらないのですか?」と問うのです。(28頁)

 

*1:序言の年月は1954年1月

*2:新共同訳では詩篇83:4

*3:しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちすべての母です

*4:義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。