ウォッチマン・ニー『歌の中の歌』読書メモ(1)
ウォッチマン・ニーの『歌の中の歌』(1999,日本福音書房)を読み始めたのでメモを記していこうと思う。台湾福音書房というところによる序言を見ると*1、この本の内容は「何十年も前にわたしたちの主にある兄弟が、数名の同労者たちに解き放ったものです。(中略)その後、一九四五年、それは時代の必要に応じて、重慶で発行されました。」とある。
全体の区分
ニーは雅歌を6つの区分に分けている。
・第一区分 初期の追い求めと満足(1:2-2:7)
・第二区分 自己から解き放されるための召し(2:8-3:5)
・第三区分 召天の召し(3:6-5:1)
・第四区分 復活の後の十字架の召し(5:2-6:13)
・第五区分 神の働き(7:1-13)
・第六区分 肉のうめき(8:1-14)
第一区分 初期の追い求めと満足(1:2-2:7)
この区分は、本書全体のかぎとなる箇所です。霊的な原則はすべてこの区分に含まれており、続いて起こるさまざまな経験を予示する箇所です。後に続く学課は、新たなものではなく、古い学課が深みを増して繰り返されるにすぎません。(17頁)
1-1 慕い求める(1:2-3)
口づけについて、放蕩息子の記事での父親の息子に対する口づけと対比して、ここでの口づけは赦しとは関係ないものであると述べている。信者と主との関係が書いてあるのであって、信者はすでに罪赦されているのだから、赦しを書く必要がない、と。むしろ救われた人が聖霊によって目覚めさせられ、主を尋ね求めるようになることが書かれている。
スネイスと同様に、口づけが「口の口づけ」であることをニーも強調している。頬でも足でもなく、口であることは個人的に親密な関係を表している。
ある信者が聖霊によって、普通の関係に本当に満足できなくさせられて、個人的な愛情を追い求めるようにならなければ、その人が主の親密な経験を得ることは決して期待できません。このように追い求めることが、将来のすべての経験の基礎です。(19頁)
愛がぶどう酒にまさることについては、「わたしたちを楽しませ、歓喜させ、興奮させるもののうち、どれも主の愛に比べることはできないことを、聖霊はわたしたちに示されます。」(20頁)と述べられており、主の愛とこの世のそれ以外のものとの比較を述べていると解釈しているようだ。私もそのような理解をしている。
ソロモンの香油(におい油)の香りとその香油のような名によってソロモンを愛するおとめたちは詩篇83:3の「かくまわれる者たち」(21頁)だと述べているが意味がよく分からない。新共同訳*2では「あなたの秘蔵の民」となっているので、そのようなニュアンスのことを言おうとしているのかもしれない。つまり、おとめと同じように霊的行程を歩んでいる他の者たちがいるということ。
1-2 追い求める(1:4)
主を追い求める思いはあるが、自分の力ではなく、主によって引き寄せていただくことで追い求めることが可能になる。
後について走るという事を、何かをずっと追い求めることだと言っているが、「ずっと」という継続的なニュアンスがあるかどうかは訳からは読み取れない。むしろ「走る」というのは追い求める情熱の強さを表しているのではないか。
スネイスは「私たちはあなたのあとから」の人称に混乱していたが、「私たち」=「おとめと他のおとめたち」、「あなた」=「ソロモン」、次の文の「王」=「ソロモン」だろう。
3節、4節で、おとめ個人の他に他のおとめたちが出てくることについて、私はおとめの求める思いが真に個人的に十分なものになっていないのだというニュアンスの解釈を聞いたことがあるが、ニーはそのような否定的な解釈をせず、「もし一人の人が主の御前で恵みを受けるなら、必ず他の信者たちも彼によって影響を受けます」(23頁)という肯定的な読み方をしている。
1-3 交わり(1:4)
「王は私を奥の間へ連れて行かれました。」
王が彼女を奥の間に連れて行かれたことは、交わりと啓示の始まりを象徴します。(23頁)
「王」という言葉は、わたしたちが主をわたしたちの愛する方として知る前に、まず主をわたしたちの王として知らなければならないことを示しています。(23頁)
「あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ」から、 尋ね求めることがぶどう酒に結び付けられている箇所としてなぜか箴言23:35の参照が促されているが意味不明である。
【新共同訳】
箴23:35 「打たれたが痛くもない。たたかれたが感じもしない。酔いが醒めたらまたもっと酒を求めよう。」
1-4 奥の間での啓示(1:5-7)
「エルサレムの娘たち」とはだれのことでしょうか? これは詩です。ですから、ここのエルサレムは、地上のエルサレムのことを言っているのではなく、天上のエルサレムのことを言っています。(24頁)
詩であるから地上のエルサレムではなくて天上のエルサレムだという論理はよく分からないが、エルサレムが霊的なものとして解釈されるとすれば、天上のエルサレムのことだということに確かになるだろう。天のエルサレムをともに母として頂く他の信者たちのことを指すのだろうか(ガラ4:26*3)。
この者たちは、あまり尋ね求めておらず、冷淡で、何にも気がつかず、不注意な人たちです。ハドソン・テーラーは言いました、「この人たちは、救われた者のように見えますが、かろうじて救われた人たちであるのでしょう」。(25頁)
エルサレムの娘たちについてのここでのニーやテーラーの解釈は私には不可解なものに思える。エルサレムの娘たちの役割は、歌の進行上「合いの手」を入れることにあり、何かを尋ねるにしても“敢えてそうしている”という面があると思われる。劇であれば主要な登場人物たちの背後に並んでその場面にふさわしい「外野の声」を投げかける無名の合唱隊のようなものではないだろうか。ニーやテーラーはエルサレムの娘たちの人格的な性質について不必要な詮索をしているのではないだろうか。
「わたしは黒いけれども、愛らしい。」
彼女は黒くなったのではなく、もとから黒かったのです。それは、アダムにあるすべてを指しています。(25頁)
おとめの黒さについて、ニーはもとからの黒さだと解釈しているが、これには疑問がある。というのは、彼女が黒いのは“日に焼けた”からであり、後天的なものであることが示唆されている上、母の子らが「ぶどう畑の見張りに立てた」ことがその原因とも考えられるからである。しかしニーは「太陽」に原文では定冠詞がついているということから、「日に焼ける」とは奥の間で神に照らされるという意味であり、神に照らされて自分が黒いことを認識するという解釈を下してこの問題を回避している。
「わたしの母の子らがわたしに向かっていきりたち」
ガラテヤ4:26-28から、「母は約束の原則を象徴して」いるとニーは解釈している。つまり、「母の子ら」とは「神の恵みの原則にしたがって神の子供たちとなった人たちのこと」だという。
「子ら」をASVにならって「息子たち」としている。
「息子たち」は、何か客観的なものを象徴します。これらの母の息子たちは、教理において、客観的な事柄において強く、また幾らか権威的です。神に対するおとめの愛と奥の間での訓練のゆえに、彼女の働きはかわりました。彼女の母の息子たちは、彼女を軽んじ始め、また彼女に向かっていきりたち始めます。(27頁)
つまり、母の子らは約束の子供たちであり救われた者たちであり、おとめに象徴される信者に対して先輩格であり指導的に振る舞うが、しかし杓子定規に外面的な奉仕をさせようとしていたために本来その信者が主に召されている働きをすることと齟齬が生じていきり立っているということのようである。
母の子らが押し付けたぶどう園とおとめの自分のぶどう園の違いについては次のように述べている。
最初に出てくる「ぶどう園」は複数形であり、それは人によって組織されたものです。次に出てくる「ぶどう園」は単数形であり、それは神によって定められたものです。(中略)彼女は、神の照らしを受け入れ、神によって対処された後、自分の以前の働きのむなしさに気づきます。彼女は、人から託されたことを行なっていたのにすぎず、神が彼女のために定められたことを行なっていたのではありません。(27頁)
「顔おおいをつけた女」のところは「身をそらす」あるいは「さ迷い歩く」という訳に従っているようである。
「どこで羊を飼い」
「飼って」とは、食物を語っています。(28頁)
つまり、彼女は主に直接養われて食物と安息を得ることを尋ね求めている。それは押し付けられた働きと対比させられている。
「昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。」
ニーはこの「休ませる」=「安息」が「昼間」であることで完全な安息を意味していると捉えている。「「昼間」は完全な時だから」だという。「昼間」が完全な時であることの説明には箴言4:18*4と、主の十字架における正午からの苦しみをあげている。
「あなたの仲間の群れの傍らで、わたしはなぜ、身をそらす者のようにしていなければならないのでしょうか?」
ニーはこの群れが主の「仲間」の群れ(信仰集団)であって、「主自身」の群れではないという事を重視しているようである。「傍ら」に置かれているという事は群れから疎外されているという事であり、母の子らがいきり立ったという事に類する描写と見ているようである。「身をそらす」とは恥を受ける事だという。
彼女は、仲間の群れの傍らに置かれ、あざけられ、批判されたために、「主よ、なぜあなたはわたしに教えてくださらないのですか?」と問うのです。(28頁)