報いの公然性

【口語訳】
マタ6:4 「それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」

マタ6:6 「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」

マタ6:18「 6:18 それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。」

【テキストゥス・レセプトゥス】

マタイ6:4「ὅπως ᾖ σου ἡ ἐλεημοσύνη ἐν τῷ κρυπτῷ· καὶ ὁ πατήρ σου ὁ βλέπων ἐν τῷ κρυπτῷ αὑτὸς, ἀποδώσει σοι ἐν τῷ φανερῷ」

マタイ6:6「σὺ δὲ ὅταν προσεύχῃ εἴσελθε εἰς τὸ ταμιεῖόν σου καὶ κλείσας τὴν θύραν σου πρόσευξαι τῷ πατρί σου τῷ ἐν τῷ κρυπτῷ· καὶ ὁ πατήρ σου ὁ βλέπων ἐν τῷ κρυπτῷ ἀποδώσει σοι ἐν τῷ φανερῷ」

マタイ6:18「ὅπως μὴ φανῇς τοῖς ἀνθρώποις νηστεύων ἀλλὰ τῷ πατρί σου τῷ ἐν τῷ κρυπτῷ· καὶ ὁ πατήρ σου ὁ βλέπων ἐν τῷ κρυπτῷ ἀποδώσει σοι ἐν τῷ φανερῷ」 

 マタイ6:4、6:6、6:18では、施しと祈りと断食のそれぞれにおいて、それを人に見せびらかすためにではなく、隠れて行うようにという教えが書かれています。そのようにすることで、隠れたところで見ておられる父が報いてくださるという報いについても言及されています。

 この報いについて、テキストゥス・レセプトゥスでは文の最後に「ἐν τῷ φανερῷ」という表現が付いています。欽定訳等では「openly」と訳されており、直訳すれば「公然と」という意味になります。つまり、父の報いは公然と与えられるということです。

 この表現が正しいものであると考える場合、”隠れた”祈りや施しに対して”公然と”報いが与えられるという「隠匿/公然」の対比があるということになります。

 少し文脈は違いますが、現在においては見ることのできない報いを将来において明らかな形で受けることができるという教えは次のようなみことばにも見出すことができます。

1ペテロ1:5-7「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることが分かります。」

 考えてみると、人前でみせびらかすことのないようにという教えは、全く誰にも認められることを求めずに善行を為せという教えではないと思います。人には認められることを求めるべきではないのですが、それは神に認められるためです。人に認められることを求めるのか、神に認められることを求めるのかは二者択一であり、我々の善行はそのどちらかに属しています。

ガラ  1:10 「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。」

1テサ  2:4 「かえって、わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである。」