どうしたら聖書を正しく解釈できるか

聖書をどのように解釈すべきかということは、多くのクリスチャンにとって重要な問題です。聖書は神のことばであって、神の御心は聖書によって知ることができますが、誤った解釈をしていれば神の御心を正しく捉えることはできないからです。正しく神の御心を知るためには、正しく聖書を解釈する必要があります。

しかし、私たちはしばしば同じ聖書箇所から互いに異なった解釈を引き出し、それが対立の元になることがあります。同じ群れに属していたとしても、大筋においては一致した解釈を採っているかもしれませんが、それでもところどころ個々人で解釈が異なっているところ、しかも全く正反対の意味に解釈していることがあります。

解釈の違いがあるという現実に対してどう対処するのかという実践的な問題はひとまず置いておき、ここでは、私たちは聖書を正しく解釈できるという前提に立った上で*1、どのようにしたら聖書を正しく解釈できるのかということを考えてみたいと思います。

まず、聖書の中に、聖書をどのように解釈するべきかということが直接説明されている箇所があるかどうか思い起こそうとしてみると、そういう記事は無いように思います。もしもあったら教えてください。

Ⅱペテロ3:16では、(おそらく聖書に収められたもあるであろう)パウロの手紙について、ある人々が「聖書の他の箇所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いて」いるという非難の言葉が記されています。ここでは聖書の解釈の仕方は説明されていませんが、聖書を曲解するべきではないこと、曲解すれば滅びを招くことになることが読み取れます。つまり、聖書は曲解ではない正しい解釈をするべきだということはひとまず言えます。

聖書を正しく解釈するための基準として、私がそれではないかというものとして思い当たるのは、Ⅰコリント2:6-16の箇所です。ここでは、「この世の知恵」と対比された「神の知恵」というものが語られています。その「神の知恵」について、「神はこれを、御霊によって私たちに啓示された」、「御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれる」、「神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」、「この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです」、「御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです」、と記されています。まとめて言うと、神の御心は御霊によって知るのであり、それ以外のものによっては知られえない、ということになります。

これを聖書解釈に当てはめて考えると、聖書の正しい解釈は御霊によって為すことができ、それ以外のものによっては為すことができない、ということになります。

これによって、正しい聖書解釈のための基準をひとまず得ることができました。しかし、すぐに問題に直面します。実際の解釈においてその解釈が御霊によって為された解釈かどうかがどのようにして分かるのか、ということです。

クリスチャンに内住する御霊は基本的に目に見えないものであり、御霊が働いているかどうかも奇跡的な出来事が起きない限り、観察することはできません。そうすると、いくら自分や他の人が御霊によって解釈している、もしくは逆に御霊によって解釈していないと思ったとしても、それを他の人に対して証明する手段はほぼないのではないでしょうか。

終末預言の解釈であれば、実際に終末が来た時にその解釈の真偽がはっきりするでしょうが、すべての聖句がそのような未来の出来事の預言に関わるわけではないし、そもそも未来の出来事にしても、それが起こってみるまでは、解釈だけを見ても真偽が判定できないということになります。

結局、「御霊による解釈かどうか」という基準は、神御自身による解釈と等しいものとして完全な基準ではあるものの、実際に出てきた解釈が御霊によるものかどうかは客観的に判断できない、ということになります。

残された道の一つとして、御霊による解釈かどうかを100%客観的に確定することはできないということを認めたうえで、仮に御霊によって解釈されるなら最低限満たしているであろう次善の客観的な解釈基準を設定し、その設定された判断基準に合致しているかどうかによって御霊によって解釈された可能性が高いか低いかを判断する、ということが考えられます。

たとえば、「文法的に正しい読み方であるかどうか」、「他の聖書箇所と明らかに矛盾していないか」といった基準を、「それを満たしているからと言って必ずしも御霊による解釈になるとは言えないが、御霊による解釈なら満たしているであろう基準」として設定し、これらの次善策として設定された基準を満たすことで、御霊による解釈である可能性を高める、ということです。

しかし、御霊による解釈になる可能性を高めるための設定される判断基準は、その基準自体をどのような基準で設定するべきか、設定の際に恣意的な、御霊によらない(!)判断が入り込む余地があるのではないか、という問題に再び直面することになります。そのような設定を決める際に、御霊の導きを求めて祈ることで、正しい基準を定めることができる、あるいは、正しい基準を定めることができる“可能性が高まる”かもしれませんが、最終的な設定の判断において恣意的なものが絶対に入り込まないとは断言できないでしょう。

私の浅はかな考えでは、このように、御霊による解釈ならば正しいとまでは言えるが、確かにそれが御霊による解釈だと証明するのは非常に困難だ、ということになります。

神様は信じる者に憐み深く、祈り求める者を恵んで導いてくださる方だと信じますので、聖書の正しい解釈についても導いてくださると信じています。今は、様々な互いに異なる聖書解釈が信じる者のあいだでさえ乱立しているのを神はそのままにしておかれていますが、それが終わりの時まで続くのか、一時的なものなのか、私にはわかりません。与えられたものの範囲で、力の限りみことばに取り組んでいきたいと思います。そこには当然、対立する解釈をしている者同士の関係をどうするかということも含まれると思います。

*1:どうして私たちが聖書を正しく解釈できると言えるのか、ということも、ここではひとまず置いておきます