ウォッチマン・ニー『歌の中の歌』読書メモ(2)

ウォッチマン・ニー『歌の中の歌』読書メモ(1) - mushimorix’s diary

続きです。「第一区分 初期の追い求めと満足」の途中から。

1-5 王の語りかけ(1:8-11)

おとめが奥の間で見る3つのものがあげられている。

  1. アダムにある〔自分の〕黒さと、愛する御子にある美しさ。
  2. 外側の働きのむなしさ(神の対処を通してみるもの)。
  3. 霊的な必要。

A 王の答え(1:8)

「もしあなたが知らないなら」――この文の語調は、王が彼女をしっ責しており、彼女はこのようなことをすでに知っているべきであったことを示しているかのようです。(29頁)

そうだろうか? そうかもしれないし、そうではないかもしれない。これは確定的ではないように思われる。

「群れの足跡に従っていって」

「羊の群れの足跡」とは、今日の信者たちの足跡を象徴しています。これらの信者たちは、一つの群れの立場、すなわち召会の立場を取っています。(今日の羊は多くいますが、彼らは一つの群れとして集まっておらず、召会の立場を取っていません)。(29頁)

これはどういうことだろうか。ニーは自分の群れである「召会」を様々なキリスト者集団の中で特権的なものとして位置付けているのだろうか。

群れとは、過去何世代にもわたってわたしたちの前を歩み、すでに世を去った聖徒たちをも象徴しています。(29頁)

 

「足跡」という言葉は、経験を意味します。(30頁)

一つの群れとして集まっていない羊を否定する一方で(?)、過去の聖徒たちについては信仰の先輩としておとめより先に食物と安息を見出した人々として「群れ」の意味するところとして捉えている。

「あなたの子やぎを飼いなさい」

子やぎは、羊ではありません。なぜなら、おとめ自身が羊であるからです。また、群れでもありません。なぜなら、彼女は群れの外にいるからです。子やぎは、彼女よりも若い者たちです。(30頁)

主との個人的な交わり――「食物」と「安息」を求めている間にも、自分より若い幼稚な弟子たちに対する自分の責務を果たすべきだ、むしろそのことによって「食物」と「安息」を得ることにつながっていくのだ、としている。

B 王の賞賛と約束(1:9-11)

「わが愛する者よ、わたしはあなたをパロの車の雌馬になぞらえる。」

「雌馬」は原文では「良い馬」を意味するとしているが、調べた範囲ではそのような意味は見いだせなかった。

9節と10節がおとめが天然の性質において持っている美しさを描写しており、11節は神の働きと、神から来る美しさを描写しているとしている。

9-11節の3つの節で言及されているとされる6つの事柄。

  1. 編まれた髪の飾り輪
  2. 金の飾り輪
  3. 銀の飾りびょう

①馬について

聖書は馬を素早さによって特徴づけているとしている。詩篇147:10の「馬の力」が参照され、「馬が素早いのは、馬が強いから」だと述べ、また雅歌1:4の走ることも引き合いに出している。しかし、これらの説明をもとに、馬という語から素早さという意味を引き出すのは無理があるように思われる。「パロの戦車の雌馬」がすべての馬の中で最も良い馬を象徴しているという説明については、多分その通りだろう。馬はエジプトから来るものとされており(1列王10:28-29*1)、パロの乗車する戦車の馬が最良の馬であることは疑いようがない。

②頬について

「人の美しさは、頬に左右されます。」と述べ、人の最も美しい部分を象徴するとしているが、この説明にはみことばによる根拠が何一つ挙げられておらず、現時点ではこれはニーの思いに過ぎないとしか言えない。

③編まれた髪の飾り輪について

髪の毛はおとめ自身のものなので、彼女の天然の良さを意味しているという。「飾り輪」は髪の毛を編むひもだとしている。しかし、「編まれた髪」が正しい訳であるかどうかははっきりしない。新改訳、新共同訳、口語訳いずれもおとめの髪には言及していない。

④首について

おそらくここでのニーの説明には旧約聖書に頻出する「うなじのこわい民」という表現が念頭にある。首がかたいかそうでないかは、ロバや馬を御するという観点から、従順であるか反抗的であるかという事に関わっている。

首につけられた装飾品は、おとめの天然の柔和さを象徴します。首は堅い部分ですが、今やそれは飾られています。(32頁)

飾られている首=天然の柔和さがある、飾られていない首=かたくなである、という対比で考えられているようである。確かに、聖書における首、しかも馬の首であればそれはかたくなかどうかを表しているので、「柔和」という表現が適切かどうかはやや疑問だが、おおむね受け入れることができるように思われる。

⑤金の飾り輪について

11節におけるこの金の飾り輪と、次の銀の飾りびょうの2つについては、9-10節の4つが天然のものであることと対比して、神から来るものであると捉えられている。

金を打って飾り物にするのにかなりの時間を要するということから、金の飾り輪は「きめ細やかな働き、すなわち神の命のもっとも細やかな表れを象徴」するとしている。しかし、これは聖書から導き出された解釈ではなく、現実の金の物理的・実際的性質から推論したものであり、受け入れられるものではない。

金が聖書の中でどのような象徴的意味を持っているかをはっきりと説明している箇所は無く、その解釈のためにはすべての用例を網羅的に検討して文脈を踏まえたうえで同じ文脈においてすべての用例に適合する解釈を考えるしかない。私の群れでは伝統的に金は義を表すとされているが、恐らくそうだろう。

頬の飾り輪と、金の飾り輪の「飾り輪」が同じ語であることから、天然の性質である髪の編みひもが金の編みひもで置き換えられるのであり、「人の天然の力を、神の義、命、栄光で置き換えることを意味する」としている。個人的には、この天然の力と神の力の対比を見出すのはやや無理やりではないかという気がする。

⑥銀の飾りびょうについて 

銀は贖いを象徴する。おとめの素晴らしさは十字架の贖いを根拠としている。私もニーと同意見である。

ウォッチマン・ニー『歌の中の歌』読書メモ(1) - mushimorix’s diary

*1:「ソロモンが馬を輸入したのはエジプトとクエからであった。すなわち王の貿易商はクエから代価を払って受け取ってきた。エジプトから輸入される戦車一両は銀六百シケル、馬は百五十シケルであった。このようにして、これらのものが王の貿易商によって、ヘテびとのすべての王たちおよびスリヤの王たちに輸出された。」