愛による神の存在証明

1ヨハネ

4:8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。

 

4:16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

 

聖書が語る福音というものは,とにもかくにもこの世界を造られた唯一真の神様が存在しているということを前提にしています.ですから,もしこの世界を造られた唯一真の神様がおられなければ,聖書に書かれていることはすべて無意味無価値な妄言の寄せ集めであり,聖書はただの紙屑に過ぎないということになります.

しかし,この国の多くの人はこの世界を造られた唯一真の神様がおられることを信じていません.どうしたら神様がおられることを信じることができるでしょうか.何か神様しか起こせないような奇跡が起きたら,信じられるでしょうか.あるいは,科学や数学や哲学によって神の存在が証明されたら,信じられるでしょうか.

聖書は,そうした私たちが通常思いつく証明の方法によっては,神様の存在を証明しようとはしません.それは,神様がおられるということは結局のところ信じることによって分かることだからです.私は今ほど,「信じられるでしょうか」というふうに言いました.神様の存在が奇跡や科学によって証明できるなら,それは信じるというよりも単に事実を確認すると表現することが適切でしょう.しかし,神様の存在はそのように単なる事実の確認のように認めることが原理的にできないものだと思います.

例えば,なにかの奇跡が起きたとして,その奇跡が偶然の現象だったり,疲れた脳みそや目の錯覚だったり,未知の自然現象や物理法則によるものだったり,薬物による幻覚ではないとどうして言い切れるでしょうか.はたまた,真の神様以外の八百万の神々のような他の宗教の神の力だったり,悪霊の力だったりする可能性もあるのではないでしょうか.どうしてその奇跡が聖書の示す真の神によって起こされたものだと断言できるのでしょうか.そう考えると,奇跡というものは必ずしも真の神の存在を証明するものとは言えないということがわかります.

また,科学のような営みは,私たちがこの有限な物理的な世界の中で観察可能な事実に基づいて論理を組み立てていくものですから,そもそもこの世界のすべてを造り,物理法則さえ造られた目に見えない方である神様を捉えるための方法としては不十分であることは明らかです.ちょうど,それはお母さんのお腹の中の胎児が,自分のお母さんの存在を外から観察することで証明しようとするようなものです.お母さんのお腹の中の胎児は,自分の生存をお母さんの体に依存していますが,しかし絶対にお母さんをお腹の外から眺めることはできません.もし,お腹の中の胎児が,僕のお母さんは顔も見ることができないのだから,存在するはずがないなどと主張したら,それはとても愚かなことです.

結局のところ,私たちが神の存在を受け入れるためには,最終的には信じるという方法しか残されていません.聖書にも,この世界が神の言葉によってできたことは信仰によって悟るのだと書かれています.

そうはいっても,何か信じるに値する理由がなければ,ただ信じるということは難しいと思います.聖書も,何も信じるに値する理由を示さずに盲目的に信じることを勧めていはいません.

では,聖書はいったい何によって私たちに真の神を信じるべき理由を示しているのでしょうか.それは,愛によって,ということができます.

聖書の内容を一言でいうと「神の愛」です.もっと短く言うと「愛」です.聖書には,神様が私たち一人ひとりのことをどんなに愛しておられるかということがひたすら2000ページ使って書いてあります.聖書は神様からのラブレターと言われることもありますが,2000ページのラブレターと表現してみるとちょっと異様に感じるくらいかもしれません.神様の私たちに対する愛は,あまりに激しいものでちょっと普通ではありません.普通じゃない愛というと単に素晴らしい愛というより危ない感じもしますが,まあそれもいたしかたないというくらい,普通の人にとって聖書の神様の愛は常軌を逸していると感じられる愛です.

そして,聖書の神こそが唯一真の神である,信じるべきお方であるというのは,まさにこの愛が分かることによって分かることなのです.

人間同士の関係のことを考えてみたいのですが,人間関係の中で最も美しい,素晴らしい関係というのはどういう関係でしょうか.それはお互いの愛によって結びついた関係ではないでしょうか.お金目当ての関係,体目当ての関係,同好の趣味による関係,ご近所の関係,職場の関係,政治的な関係など,色々ありますが,やはりもっともお互いを信頼できる,安心感があり,美しく,価値があると言えるのは,愛によって結びついた関係だろうと思います.

人間関係の中で,相手のことを最も信じられるときというのはどういうときかというと,その人を信じるに値する奇跡が起きたからとか,その人が信じるに値するという科学的な証拠があるからではないと思います.端的に,相手のことを愛しているときに相手のことを最も信じられるのではないかと思います.そして,相手のことを愛することができるのは,相手も自分のことを愛してくれていると感じることができるからではないかと思います.

神様を信じられるかというのもこれに近いところがあり,結局神様からの愛を受け入れられるかどうかが,神様を信じられるかどうかの分かれ目なのです.

聖書は,神様の具体的な愛はイエス・キリストの十字架によって最高潮に表されたことを告げています.神の前に罪人である私たちの身代わりとして,神の子であるイエス・キリストが十字架の上で神のさばきを受けたこと,これが神様から私たちへの最高の愛の形であると聖書は教えています.

信じたクリスチャンである私たちにとって,この神様の愛は本当に自分が知る中で最高の愛であり,むしろこれこそが本物の,真実の愛であるということになるのですが,逆に信じていない人は,この愛が分からないから信じていないということになります.

先程も述べたように,神様の愛というのは2000ページものラブレターを1500年くらいかけて書き上げて渡してくるような,一般的な感覚からはかけ離れた常軌を逸したものです.ですから,そんな常軌を逸した神の愛をすぐに受け入れられなくても,ある意味で無理はありません.ややもすると,神の愛は一見して恐ろしく執拗なストーカーにさえ思えてくるかもしれません.自分が拒否しているのに一方的な愛を押し付けてくる歪んだ行動がストーカーにはありますが,神の愛がそのようなストーカーとどのように違うのか,というのはなかなかわかりにくいところではあります.

大きなヒントになるのは,私たちは神様の前に罪人であるという,一つの重要な教えです.私たち人間は,神様からの愛を受け取るか受け取らないか,自由に選ぶことができます.しかし,神様の愛を拒否したら,私たちは自分の罪という問題から自分を救い出してくれる唯一の道を失うことになります.聖書はラブレターでありながら,私たちの中にある罪という問題,つまり私たちがいかに堕落してしまった悪い者であるかということが徹底的に指摘されているという普通のラブレターと比較するとありえない特徴を持っています.ラブレターというのは普通は相手のいいところだけを書くものだからです.しかし,真実の愛というものは,相手の悪いところを徹底的に暴いた上で,それを解決し,赦し,包み込んでしまうものだということを聖書は示しています.神の愛は,その真実の愛の実践だということができます.逆に言えば,自分の心の中の隠れた闇,罪という問題をさらけ出さずには,神の愛を受け取ることができないということでもあります.神様は,臭いものに蓋をした,表面的に取り繕ったような偽の愛は望んでいません.自分の心の中の闇を暴かれるというのはつらい経験ではありますが,嘘偽りのない真実な愛を実現するためには必要な痛みなのです.ですから,私たちが真実に自分の心の闇を見つめ,罪という問題に苦しみ,その苦しみを神様の前にさらけ出すそのときに,はじめて神様の愛が私たちの心に到達し,それを理解することができるようになるのです.

ゲヘナの永遠の火に罪人が焼かれることにおいても神の愛が働いていることについて

律法の内容を要約すると、それは「神と隣人を愛せよ」というものになる。

 

「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」

 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

これが、重要な第一の戒めです。

『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。

この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

(マタイ22:36-40)

 

「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。

(ローマ13:9)

 

 律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

(ガラテヤ5:14)

 

人は律法を完全に守り行うならそれによって義と認められる。そして律法の命令とは詰まるところ愛の命令である。故に義とは愛を行うことだといえる。義と愛とは対立するものではなく、一体のものだということになる。

しかしときに、愛と義の関係が対立的であるように考えられていることがある。特に罪に対する神の裁きを語る際に、愛なる神がなぜ罪人を裁くのかという疑問に答えるために、神は愛なる方であると同時に義なる方でもあるからだという説明である。それで、愛を立てれば罪人を裁くことができず、義を立てれば罪人を裁かなければならない、というように考えて、愛と義が対立しているかのような見かけを作り出してしまうのである。愛なる神も罪人を裁くときには愛ではなく義の方を取っている、愛“ではなく”義が二者択一的に選ばれていると考えてしまっているのだ。しかし、このような愛か義かという二者択一のように考えることは正しいのだろうか。罪人が裁かれるとき、そこにあるのは義だけで、愛はどこにもないのだろうか。

罪が裁かれるというのは確かに義の実現である。そして、神が罪人を最後の審判を経てゲヘナの火に投げ込むとき、その裁かれている罪人を愛しているというふうには表現できるとは思えないというのも確かだ。神が義をもって罪人をゲヘナで焼いているときに、その罪人への愛を示すことはできない。

しかし、確かにその永遠の火で裁かれている罪人への愛はそこにないかもしれないが、罪人をゲヘナで裁くことにおいても、ある面では神の愛が示されていると述べることも可能なのではないだろうか。それは、不当な苦しみを受けた聖徒たちのための復讐という面においてである。

 

彼らは大声で叫んだ。「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

(黙示録6:10)

 

神はキリストの証しのために殺された聖徒たちのために、復讐を行う。それによってご自身の義を示し、同時に愛を示されるのである。神の国が実現されるためには、地上の悪は一掃され、罪に対する正当な報いが行われなければならない。神の国とは究極の愛の交わりのあるところであり、聖徒たちの最大の希望であり、その希望を神が実現してくださることはまさしく愛によることである。

 

それは、あなたがたを神の国にふさわしいものと認める、神の正しいさばきがあることの証拠です。あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。

神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、

苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。

主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。

そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。

その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。

(第二テサロニケ1:5-10)

 

したがって、罪人がゲヘナの火で焼かれるときにさえ、神は愛であり、むしろ愛のためにこそ、神は罪人をゲヘナで焼くのだとさえ言いうるのである。

質問への答え:聖書の中で今日のクリスチャンに適用される箇所とされない箇所について

質問箱で頂いた以下の質問に回答します.

旧約聖書はイエス様の後は適応されないのですか?(例えば10分の1献金など)

新約聖書のローマから後のみ今のクリスチャンに適応されると聞きました.

なのでイザヤなどのみことばに今の自分の祈りを当てはめたりするのもおかしいことですか? 

 

 ご質問の中の「適応」は「適用」の誤りではないかと思います.

旧約聖書の適用という場合,その意味はいくつかあります.イエス様の十字架以前と以降で適用されるかどうかが分かれるというのは,旧約聖書に記された律法による契約のことです.律法による契約というのは,イスラエルの民がエジプトを出たときにモーセを通して与えられた律法の行いを守ることによって祝福されるという契約です.

しかし,実際には律法を完全に守ることは人間には不可能です.律法の役目はまさに人間には神様の正しい教えを守る力がないことを示すことにありました.

しかし,イエス様が来られ,十字架の贖いの死によって私たちの罪を取り除き,律法の行いにはよらない,信仰による義を与えてくださいました.律法による古い契約は廃棄され,キリストの十字架による新しい契約が打ち立てられました.

ですから,旧約聖書の律法の行いを救われるための条件としてそれを守るという意味での「旧約聖書の適用」は現在のクリスチャンにはなされないし,してはなりません.キリストの十字架以外に,私たちを救うことのできる力を持つものはありません.

しかし,律法の教えを,神が示した絶対的に正しい指針として,クリスチャンとしての歩みに活かすという意味での「旧約聖書の適用」であれば,今日のクリスチャンにとってもまったくおかしなことではありません.ただ,それは律法の教えのすべてを文字通りに実践すべきだということではありませんし,逆に律法の教えを超えるような正しさや愛や熱心を示してはいけないということでもありません.

クリスチャンはキリストにあって完全に自由な者とされており,強制的に法律や戒律を守らされるようにして生きるものではありません.

キリストの愛(=神の愛)を知ったクリスチャンは,その愛に応えたいという思いを持つようになります.キリストの愛に応えようとする思いは,必然的に神の愛する正しい生き方をしたいという願いへと向かい,やがて旧約聖書の律法に記された神様の正しい教えに目を向けるようになり,それがクリスチャン生活の指針として非常に有益であることに気づくようになります.律法のある部分は,生贄についての教えなど,イエス様の十字架が実現したことで文字通りの実践にはまったく意味がないものになりました(もちろん文字通りの実践以外の象徴的な学びや教訓を得るためには依然として有益です).一方で,別のある部分は「父と母を敬え」など,今日でも文字通りそのまま実践できるし,そうすべき教えもあります.ただ,重要なのはどれを今日文字通り守るべきかそうでないかということではなく,私やあなたが神に愛されており,この神の愛に答えるためにもっともふさわしい方法はどんなものであるかをよく考え,導きを求めることです.

ご質問で例としてあげられている「10分の1献金」は厳密には律法の教えの実践そのものではありませんが,律法において神への捧げものの分量としてよく出てくる比率であり,律法の文字通りの実践に非常に近いものだと思います.教会によっては,収入の10分の1を献金とすることをほとんど義務のようにしてしまっているところもあるかもしれませんが,それは全くの誤りです.クリスチャンが神に仕え,神に何かを捧げるのはキリストにある自由をもって愛のゆえにそうするのであって,強制されてではありません.ただ,別の見方をすれば,一切自由なのですから,10分の1を超える割合を(それこそ全財産でも)捧げてよいのです.律法の一端を取り上げて,その数字をまるで絶対の戒律のように扱うことは,キリストの御霊によって仕えるべきクリスチャンにはふさわしいことではありません.

新約聖書のローマ人への手紙から今のクリスチャンに適用されるというのは,四福音書使徒の働きの中に書かれた時代的な区分を踏まえての考え方だと思われます.つまり,四福音書の内容のほとんどはイエス様が生きておられた時代を書いており,イエス様の十字架がまだ実現しておらず,時代的な区分で言えば旧約の時代に属していると考えられます.また,使徒の働きにおいては,福音は最初エルサレムにおけるユダヤ人の救いから始まり,徐々に異邦人を含む全世界へと広がっていく過程が記されており,本当に異邦人が救われるのか,モーセの律法を異邦人にも守らせなくてよいのかなどが争われた記事が記されており,福音の真理が教会の中で確立されていく過渡的な部分が多くあります.これらのことを踏まえて「今のクリスチャンへの適用はローマ人への手紙から」という考え方をすることはある程度理解できます.しかし,なんの前提もなしに「今のクリスチャンへの適用はローマ人への手紙から」とただ述べることは誤解を招くと思います.実際には福音書の中にも使徒の働きの中にも今日のクリスチャンに対する直接的教えとして「適用」してよい部分は多くあり,直接当てはまらない可能性が大きい箇所があったとしても,教訓的にであればすべての箇所は今日のクリスチャンに「適用」可能です.四福音書及び使徒の働きにおける教えの中で,今日のクリスチャンに直接適用できるかどうか議論の分かれる部分もあります.それはご質問にあるイザヤ等の預言書についても同様です.預言書は特に解釈も難しく,その直接的適用範囲についても様々な議論があります.その詳細を今議論することはしませんが,しかし,神に対して誠実な思いを持って,聖書の御言葉から自分の歩むべき道を教えてもらいたいと願う我々クリスチャンに対して神は様々な方法をもって語ってくださると思います(誤解を誤解として教えてくださることも含めて).

結論としては,創世記から黙示録に至るまで,どんな箇所であっても今日のクリスチャンに適用することは可能です.特に,象徴的あるいは教訓的な意味合いでならまずどんな箇所を適用してもほとんど問題ありません.しかし,直接的に語られている対象としてという意味では,今日のクリスチャンにはまったく適用できない箇所もあります.また,今日のクリスチャンあるいは今日のクリスチャンを含めた人々のことを直接的に指して語られているか,議論の別れているところがあり,慎重に判断する必要があります.

質問への答え:伴侶が得られない人生をどう受け入れればいいと思いますか?

【伴侶が得られない人生をどう受け入れればいいと思いますか?】


これはとても難しい質問だと思います.正直に言って,どう答えたら良いのか,私にはわかりません.

パウロは,神の啓示ではなく自分の意見であると断った上で,独身であることが結婚するより良いことであると述べています.今日の我々にとっては,そのパウロの言葉が聖書として残されていることから,やはり独身の方が結婚よりもよいのではないかという意見に傾きます.

しかし,それはある意味理念上の話,あるいは選択肢があった上での話だと思います.現に伴侶を得たいと望んでいる人に対して,独身の素晴らしさをいかに説いたところで,それがなにかの慰めになる可能性は低いのではないかと私は思います.


独身についてイエス様が語った唯一の箇所として,マタイ19:11-12があります.不貞以外の理由で妻を離別する者は姦淫を犯しているののだと語ったイエス様に対して,弟子たちが妻に対する夫の立場がそんなものなら結婚しないほうがましだと言い,それに対してさらにイエス様がお答えになった言葉です.


「しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。 母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」」


ここでのイエス様の言葉の意味を汲み取るのは難しいのですが,全体としては独身者になることがそれほど簡単なことではないと言っているように思われます.弟子たちは独身を簡単に,軽く考えていました.気に入らない妻と離縁すこともできないようながんじがらめの結婚をするくらいならいっそのこと独身の方がいい,それが弟子たちの考えでした.独身とは自分の都合で好き勝手に選べる選択肢の一つ,弟子たちの捉え方はそのようなものだったと思われます.しかしイエス様は,独身とはもっと厳粛で重いものだと示されたのだと思います.

この前の箇所では,イエス様は結婚の尊さを宣言し,モーセから続いてきた教えに反して,離婚は神の前に認められるべきではないことを明言しました.その,本来の結婚の尊さ,それを全うすべき責任の重さ,それに耐えられない人間の弱さが,弟子たちの安易な反応を引き起こしたと思われます.イエス様の語る結婚は潔癖すぎる,そんなものには耐えられないから独身"でも"いいや,という苦し紛れの逃げ道のつもりでの「独身」が弟子たちの考えた「独身」でした.

しかし,独身はそのような安易なものではないとイエス様は示したと思います.それは,イエス様は独身を強いられること,あるいは独身を選ぶことの困難さを深く理解しておられたということでもあると思います.

クリスチャンとしては,ありきたりですが伴侶を求めるときにはやはり神に祈り求めるということが第一だと思います.もし祈りによって神に伴侶を求めたことがないのなら,まずそれをしてみてほしいと思います.あなたがクリスチャンでなかったとしても,その祈りには意味があります.クリスチャンとして祈るのであれば,御心の人が与えられるようにと祈ることを勧めます.御心の人との結婚によって,御心の実現が成ることを求めるという思いで願うことを勧めます.個人的な希望をできる限り捨て去り,ただ御心のままにと願う,そのような祈りを神は聞かれると思います.

個人的な希望を捨て去るということは,結婚できない可能性をも受け入れなければならないのか,そのように思われるかもしれません.ここには祈りについての核心的な事柄があるかもしれません.

サムエル記の最初の方に出てくる預言者サムエルの母ハンナのことを考えてみたいのですが,彼女は不妊の女で,子どもが与えられないことに苦しみ,男の子が与えられることを神に切望して祈り求めました.しかし彼女の祈りはただ男の子を求めるのではなく,与えられた男の子を神のものとしてその一生を捧げることを含んでいました.子どもが与えられずに苦しんでいるのに,与えられたらその子どもを神に捧げることを約束するなんて矛盾している,普通に考えるとそう見えます.しかしハンナは自分の求める自分の子供という願いを捨て,神の求める子供を求めることで,その子供を手放す代わりに5人の子供をその後で授かりました.

神から祝福を得る時に,今自分が握っているもの,自分の心を支配しているものを手放すことが必要であることがあります.神の祝福はそれを求める者の願うところをはるかに越えている,ということを聖書を読んでいるといつも思わされます.

結婚できないことが神の御心かもしれないのでは,神の御心にまかせて結婚を求めることには意味がない,果たしてそうでしょうか.神への信頼というものはまさにこのようなところにあるのではないでしょうか.

 

 

質問への答え② 虐待されて亡くなった子供の人生の意味

Peingで2つ質問を頂いたうちの2つ目とその回答です.

質問2

peing.net

虐待されて亡くなった子供のニュースを知ると,生まれてきたことに意味があるとか,意味があるとか生かされてるとか,絶対嘘だなあと思います.虐待されて亡くなった子が意味があるから生まれたとか意味があるから生かされてたとか信じがたいし,例え意味があったとして,そんな意味のためにその子が生まれて苦しんで死ぬ理由にはならないと思います.

神はその親元に生まれれば虐待される事くらい見通していたと思うので,悪は人間の罪のせいという理論は納得できません.

 

 回答2

エス様のことを考えてみたいと思います.虐待されて亡くなった子供の人生にどんな意味があったのかという問題は,イエス様の生涯にどんな意味があったのかという問題と似ているところがあるように思います.イエス様は,その生涯の最後に友と呼んだ弟子から裏切られ,暴行され,嘲笑され,有罪とされ,丸裸にされ,十字架刑に処され,父なる神様から見捨てられて死にました.イエス様ほど悲惨な苦しみを経験して死んだ人はいませんでした.

しかし私達クリスチャンはイエス様の死による罪の贖い,そして復活と再臨を信じていますから,イエス様の生涯,特にその死が無意味であったとは考えません.むしろイエス様の死こそ最も意味のある事だったと考えます.

しかし,未信者にとってイエス様の死は無意味です.未信者にとって,イエス様は敗北し,夢抱いた神の国を実現できずに犬死した一人の宗教家に過ぎません.キリスト教を作ったとか後世に影響を与えたとか言われることもありますが,それは単なる歴史上の一人物としての興味の対象であるに過ぎません.

クリスチャンはイエス様の悲惨な死には最大の意味があると信じ,未信者は意味を見出しません.見方が違う事でその人生に意味があるとするか無意味とするかが違ってきます.

虐待されて亡くなった子供の人生にどんな意味があったのか,それは私達には分かりません.虐待されて亡くなった事がニュースになり,私達の心に強い印象を与えたという点では,私達にとってその子の死は何らかの意味があったかもしれません.しかしその子自身にとって,その人生の意味は何だったのか,それは私達には知りえないことです.

ただ,クリスチャンは5羽2アサリオン(2羽1アサリオン)で売られている雀の1羽であっても神の前には忘れられておらず,神の許しなしにはその雀が地に落ちることはないと知っています(マタイ10:29,ルカ12:6).また,神は私達の髪の毛の本数すら把握しておられるほど私達ひとりひとりを気にかけてくださり,多くの雀にまさって尊く扱ってくださることを示してくださいました(ルカ12:7).

親の虐待によって一人の子供が亡くなったということは本当に悲しいことですが,このことは神様の許しのもとに起こりました.目に見える範囲のことだけを考えるなら無慈悲であるかのように見えるかもしれませんが,私はその亡くなった子供にとって最善のものを神様が用意しておられたと信じます.

この世の悲惨さに触れる時,私達の心は時に張り裂けそうな悲痛を感じ,為す術もなく無力に立ち尽くします.そして,神がいるならなぜこんな事が起こるのか,なぜ神はこんな悪を許すのか,という神への不信に陥ります.しかしクリスチャンとしての私はそのようなこの世の悲惨さに対して虚無に陥りそうになる心を自覚しながらも,神の心は私の心よりも広く深く高く,絶対的な善,絶対的な平和を実現するべく世界に働きかけ続け,やがて完全にそれを実現すると信じます.今起こっていることの意味は人にはわからなくとも,神にとっては意味があり,計画があり,その人にとっての最善の意味があります.

今この地上で涙を流し,絶望し,激しい暴力や飢えや寒さなどに晒され,遂に死んでしまったとしても,神に信頼する者には永遠の慰めを受ける希望があります.

 

黙示録21:4-5

神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」

 

小学生くらいの子供だと,明確に神を信仰する意識を持つことができるかどうかは判断の難しいところだと思います.親がクリスチャンでなく,聖書の神を教えられていなければなおさらだと思います.そのような子供が亡くなった場合,神はその子供をどのように扱われるのか,明確な答えはありませんが,ただ,それでもやはり神はその子供を愛をもって扱われるということだけは言えます.

 

マタイ 19:14

しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」

マルコ 10:14

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。

ルカ 18:16

しかし、イエスは幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。

質問への答え① 神への感謝

Peingの質問箱で2つ続けて質問をいただきました.以下はその質問と私の回答です.質問が2つですので,記事もそれぞれの質問ごとに1つずつとなります.

 

質問1

peing.net

勝手に造ったのも生かしてるのも神なのに、なんで養ってくれることに対して?(実際クリスチャンが何を感謝してるか知りませんが)「神に感謝」しなくちゃいけないのでしょうか。発想が毒親っぽくないですか?(当方クリスチャンです)

 

 回答1

ロマ 1:21 彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。

 

ヘブル 12:10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。



 感謝するという行為には,2つの側面があると思います.一つは,自分に対して何か良いことをしてくれた人に対しては感謝すべきだという義務の感覚です.もう一つは,ぜひとも感謝したいという自発的な感覚です.

 このうち,義務の方については,ある場合抵抗を覚えることがあるかもしれません.自発的に感謝したという自然な思いが湧いてくる前に,「このことにあなたは感謝すべきだ」という義務的な要求を先にされると,何か不当なことを言われたような気持ちになるのは往々にしてあることだと思います.

 ただ,義務的な感謝というのが間違ったものかというと,そうとも言えないと思います.親切な行為に対して一言の感謝の言葉もない場合,それはかなり失礼なことだという感覚を私たちは持っているのではないでしょうか.社会的に,「こういう時には感謝すべき」という義務的な感謝の規範が働く場面は実際のところかなり多いのではないかと思います.

 では,神様が私たちを造り,生かして養っていることについてはどうでしょうか.ご質問では神に感謝すべきというのが毒親のような発想ではないかと言われているので,神様の前に人間の親について考えてみたいと思います.

 聖書から見ると,人間の親子の関係は神様と人間の関係を象徴的に表すものとして神様が造られた関係だと言えます(もっと根源的な親子関係は父なる神様とイエス様との関係だと思いますが今は省きます).神様は人間にとって親のような方であり,人間は神様にとって子供のような存在です.人間の親子に普遍的に見られる関係や,その最良の状態を通して,神様はご自身と人間とのあるべき姿を示そうとしておられるのだと考えられます.

 しかし,ここで注意しておかなければならないのは,アダムとエバの罪以来,人間は堕落してしまい,神様が最初に意図されていたような完全な姿からは,かけ離れた存在になってしまっているということです.堕落の影響は親子の関係にも及んでおり,神様が本来意図していたところから離れた,破壊された親子関係が人間の世界には蔓延しています.

 聖書の中にも,破壊された親子関係の問題が色々と出てきます.イサクとリベカが双子の息子のヤコブエサウを片方ずつ偏愛したこと,ダビデとアブシャロムの戦い,自分の子供達を皆殺しにしたアタルヤ,イエス様に目を開けられた盲目の人を見捨てた両親,自分の娘にバプテスマのヨハネの首を要求するようにそそのかしたヘロディアなどの例をあげることができます.

 このように,現在罪の影響下にある人間の親子関係はしばしば悲惨な状況を生み出してしまっています.虐待と呼ばれるようなことも,罪によって堕落した影響から生じてくるものです.そして,これらは本来のあるべき真の親子関係とは異なったものです.

 人間にとって最善の親子関係,真の親子関係は,神様を信じる者が神様との間に築く関係であり,最終的に罪が完全に消え去った時に現れる関係です.この関係は今現在罪のある状態で私たちがこの地上で経験する肉体的な血の繋がりによる親子関係よりもはるかに優れたものであり,この究極の親子関係に比べれば,今現在クリスチャンの家庭で比較的信仰的にうまく築かれている親子関係でさえ霞んでしまいます.

 ですから,罪によって堕落した親子関係から類推して,罪の存在しない真実の完全な親子関係のことを考えるのは誤りです.

 そうして,あくまで神様が完全なお方であることを前提とした上で,なぜ神様に感謝すべきかといえば,そうするべきだから,という以上の答えを見出すのは困難です.神様は絶対的な権威者であり,何が人間のなすべきことであるかを決めるのも神様のみこころ次第です.徹頭徹尾,人間の人生の主導権は神にあります.

 

ロマ
9:20 人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
9:21 陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。

 

 このように神様の絶対的な権威について語ることは,しばしば人間の心に反感を抱かせます.人間には罪によって神様に逆らう心が湧き出てくるようになっているため,神の権威を認めることは難しくなってしまっています.

 もし,このような絶対的な権威と主導権を主張するのが,人間の親であったなら,私たちがそれを受け入れるのは非常に難しいと思います.しかし,神様は完全なお方であり,何が人間にとって最も幸いであるのかを知り,それを人間に与えようとしておられるお方です.人間の親が子供に要求する感謝は,ある場合理不尽かもしれませんが,神様が人間に感謝を要求されるときは,確実に人間にとって最善の幸福を備え,与えられている,ということを覚える必要があります.間違いなく最善のものを与えられているのなら,そこに感謝はある”べき”としても問題ないのではないでしょうか.

 

ロマ
9:22 それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。
9:23 しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。

 

 しかし,神様が本当に自分にとって最善のものを用意し,与えているのか,と疑問に思われるかもしれません.実はそこにこそ信仰が求められます.神様は私のために最善のものを備え与えてくれている,そこに真実の愛があると信じるなら,私たちは感謝できます.義務の感謝が自発の感謝と一つになります.

 また,さらに言うなら,人間の親に対する感謝も,実は神様に信頼することによって初めて可能になります.不完全な人間の親と違う完全な親である神様のことを強調しましたが,神様は十戒の中で「あなたの父と母を敬え」と,人間の親に対する敬愛を示すようにもはっきり命じておられるのです.それどころか,この命令は(人間との関係において)「第一の戒め」と書かれており,またそれを行うことで地上での幸せで長寿の生涯を約束された命令でもあります.

 

エペソ

6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。

6:3 「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。

 

 目の前の不完全な親のことだけを見ていたら,私たちが親を敬うということはしばしば困難になります.しかし,親の権威の根本には神の権威があること,親への敬意の根本には神への敬意があり,神からの素晴らしい祝福の約束があることを見据えるなら,親を敬うことを通して神様を敬うことをも学ぶことができるのです.

バプテスマを受けないことの勧め

Ⅰペテ 3:21 この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して願い求めることです。

  クリスチャンになったとき,人はバプテスマを受けます.しかし,誤解してはいけないのは,バプテスマを受けたからクリスチャンになるのではなく,クリスチャンになったからバプテスマを受けるのだということです.

 バプテスマを受けることは救いの立場を得るための条件ではありません.イエス・キリストを信じることで人は救われるのであって,そこにいかなる行いも要求されません.バプテスマもその例外ではなく,バプテスマを受けたから救われるということはないし,受けなかったから救われないということもありません..ただ,クリスチャンになったらバプテスマは当然受けるべきものではあります.

 引用した箇所では,「救うバプテスマ」と書いてありますが,第一ペテロで言っている救いとは,救いの立場を得ることではなく,既に救いの立場を得たクリスチャンが地上の生涯を全うし,キリストの再臨のときにその報いを受けるということを指しています.ですから,バプテスマはあくまで既に信じ救われたクリスチャンにだけ関わりがあることであって,まだ信じていない人にとっては,なんの関係もない儀式です.

 ですから,もしまだ心からイエス・キリストを信じていないのであれば,決してバプテスマを受けてはいけません.一度バプテスマを受けてしまったら,周りの人はその人をクリスチャンとして扱ってしまいますから,もう一度まだ信じていな人に対してするように福音を伝えることはとても難しくなってしまいます.

 信じていないのに,救われていないのにバプテスマを受けてしまうということは実際にあります.それはまったく取り返しがつかないということではありませんが,修正するのは大変困難です.バプテスマを受けようとする前に,自分が本当にイエス・キリストを信じているのか,正しく受け入れているのか,よく考えて見る必要があります.

 福音集会に長い間通っていると,周りのクリスチャンもうっかり勘違いして,この人はこれだけ長く福音を聞いているのだから,そろそろ福音が分かってきたのではないか,と思ってしまうことがあります.場合によってはもう殆ど信じているだろう,という意味不明な判断をしていることもあります.

 しかし,福音集会に長い間出席していれば自然に福音がわかるわけではないし,まして信じられるようになるわけではありません.10年,20年,30年と福音を聞き続けていても,分からない人は分からないし,信じられない人は信じられないのです.ですから,自分はもうこれだけ福音を聞いてきたのだから,バプテスマを受けてもいいのではないか,などと思っては絶対にいけません.周りの人にバプテスマを勧められても,安易に受け入れてはいけません.福音が分からないのなら,信じられないのならば,バプテスマを受けてもなんの意味もないのです.